日本も愛と自然と水を汚されやがて日本人自体が退廃してきた。もはやもののあはれが育たない。自然育ちの野菜が乏しい。その味を知らないか忘れてる。夜に星空はなく、昼はメダカがいない。資本優先で自然があまりに疎かにされている証拠に麦農家は今やタクシー運転手。また車に乗る人にとっても道を遮るすずめは害鳥でしかない。それを退廃だと気づけない。自然やすずめにとってみれば車のほうが害毒なのに。それは現実であるのに。現実に気づこうとしないところに病理は侵食するがその現実からも目を逸らす。社会全体が因果から目を逸らしている。神饌を庭にまけばすずめは寄ってくるのに…もうそんな興味は心に湧かない。現代の者は、神的なものを共有できうるか否かという天国に行く最大条件をいくつか失っている。偽装はあるが真心はない。あって何の役に立つの?時代が本当に末法化するにつれ、本当に退廃的な思想しか出なくなってきた。「現実」の反意語は「仮想」。その問題集の解答が理解できない。Surréalismeもわからずに芸術とか宗教のほうを仮想にする。そやつにかぎって水の分子を絵に書かせても仮想モデルしか書けないだろう。ボールが三つではないんですよ・・・・分子ってのは・・・・・・・。
健全なみなさん恋愛はできてるのでしょうか。このやすやすと科学(時の権力)に寄り添う今の風潮(狭い共同幻想)に適していない人は、恋愛の条件を満たす人もなかなか見つからない気がする。人工物ばかりがあふれ、遊びに行ってもなんか浅薄な美景で。そんな折には瑞穂の国であった過去に行くしかないのです。弥生時代なんかきっと最高だ。肉体精神ともに退廃してないから。弥生人のことを考えていると幸せになる。当時の日本の民はどんなに素朴で純粹で、どんな顔つきをしてたんだろう。でも男女の服装すら解明されてない時代ゆえ、完全に想像力になってしまう。凡庸なる想像に行き詰まる。そこで才人の導き。時代は現代化するけど『源氏物語』は最高であった。登場人物を一人一人品定めしてゆくと、その中からこの仔はよもや・・・という存在がひょっこり出てくるかもしれない。日常の退屈さからの逃れからか、心のより所となる日本人のかわらぬ恋慕・詩情を求めてのゆえか、源氏の世界に魅入ってしまわれたあわれな男たち・腐女子たちの古今問わずいかに多いこと。物語の流れには繊細な空気感があって、一部の書籍やインターネットのように、文芸に装飾過多なところはなく、人物は文面の上にではなく生きている。無を解する人が、空を書いた、という感じに。これが世界最高文学というものか。小林秀雄が読め読めうるさいのをきっかけに読み始めたのだがラ・ロッシュフコーが「恋をしていない時に恋を手に入れるほうが、恋をしている時に恋を捨てるよりもたやすい」と言うとおり、ちょっと今たいへんで、あの子のことを考えるとせつない。小林秀雄には感謝しつつ、紫式部にははやくあの子に会わせてと思う。
あの子が着ているといわれる装束や当時の髪形などについては時代の隔たりとか抵抗があるものの、形而上ゆえ今よりも美しい。そんな純日本的な服装をしているといふあの子に比べると、現代はお洒落じみていてぜんぜんアシャーマブルじゃない。でも会ったらいまどきの服装に着替えさせるに違いないが。源氏があの子にたいしてそうしたように。・・・何言ってるのかわからないがそれは「和服の乙女」は好きだけど、和服の乙女は吐き気を催すと云うもので、化粧がまず臭い。人間に思えない。そういう感情であり、ようするにイデアの中にある形象がいいのです。僕は。「神や聖母を絵や彫刻にするとは何事か」というイスラームの主張は(おそらくイスラームが霊性的であるゆえ)神社神道の僕にはよくわかる。現象に舞い降りるともうだめで。
とはいえプラハやウィーンで見た女神や少年の彫刻は、まだしも受け入れ難いところはなく、てにいれたいぐらいでもあつた。イデアといえばギリシアの方面ですが、あちらの彫刻・・・ファイヤーエムブレムに出てきそうな女神軍とか海のトリトンみたいな少年像は、さすがはイデアを理解されている。とはいえ、今、源氏のあの子の描かれた鎌倉の絵巻などを、その形而上が固成しつつあるこのタイミングで見せられた暁には・・・幻滅するか破いてしまうだろう。100%イメージどおりじゃないから。それが僕の想像力審美を超えた姿形をしているのならまだしもと思うが、いやそれもどんな天才の手によってでもおそらく無いことだろう。僕はあの世で会えればよいと思ってる。








ここより下はのろけだから読まなくてもいいです


桐壷と源氏
桐壷とは淑景舎の通称。以下略。こういう教科書的知識は背景を彩る知識であり、また先入観を間違わせたままにしないためのものなので、先行さすとうっとうしい。物語りはまず味わうことが必要で、本当にのめり込んで欲するままに知ってゆくことに価値がある。と前置くのも源氏物語は国文科や雅楽好きやオタクの人以外にとっては受験で習うものでしかないから。でも裏を返せば、知っている価値があるからこそ覚えさせられる。 情報理解力や推察力を試す題材としても優れたもので、推理小説よりも深い感性を要する。文学の背景で当時の面影を伝えるという手段もいい。言語の成立ちからも、たとえば形容詞「すごし」は当時は恐ろしい感じやぞっとするほど素晴らしいものを表す言葉であったけど(「心すごし」=寂しい・気味が悪い)、現代では「すんごい○×」とか「すごーい」とかいう程度を表すだけのシンプルなものとなった、という遷移から、現代人のノリの軽さとか当時の人の奥ゆかしさなどを反照さすことができる。
当時の宮廷の人は奥ゆかしい反面、嫉妬も深く、桐壷は憎まれて死んだ。これにつけても、憎みたまふ人々多かり。(故人を)。
桐壺の子供が源氏。源氏は相当位の高い人。源氏の君は子供のうちに桐壺を失った。

空蝉と小君
空蝉(うつせみ)は小君(こぎみ)のお姉さん。小君が登場して活躍するのは「ははぎ木」と「空蝉」の段。姉の空蝉はまだ若いが、父(中納言)が亡くなったのちは年の行っている伊予介の妻になる。伊予介には先立たれた妻がいて、その間の子に紀伊守がいる。紀伊守も既に大人で子をもうけている。
初登場は、空蝉と伊予介の子や紀伊守の子らに交じってあまたある中に。
…あるじの子どもをかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じなれたるもあり、伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二三ばかりなるもあり。「いづれかいづれ」など問ひたまうに、「これは故衛門督の末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがにかくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうはえまじらひはべらざめる」と申す。
この子は亡くなりました衛門督の末っ子で、督がじつにかわいがっておりましたのが、幼いうちにその父親に先立たれまして、姉との縁でこうしてここにいるのでございます。学問などもものになりそうで、見込みのないわけでもございませんが、殿上童になどとも望んではおりますものの、おいそれとは出仕いたしかねているようでございます(殿上童となるには相応の縁故や資力も必要だから)。
「源氏は17歳だが小君の年齢はわからない」というインターネットが多かったけどここに出ている。

夜に源氏は空蝉と小君の会話を立ち聞きする。
ありつる子の声※にて「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ。」とかれたる声のをかしきにて言えば・・・
※昼間に見た子の声。十二、三歳の変声期のかわいいかすれ声で姉(空蝉)に源氏の君のことを伝える。両親を失った思春期前期の少年の、姉になつき甘える姿。
姉はすでに寝ていたとおぼしくしまりのない声で小君に返事をする。その声があの子の声に似ていたのでそれは姉だと源氏にはわかった。
このワンシーンだけでも充分に十日は過ごせる。源氏はこの期、空蝉を夜ばいに。空蝉は恐れていて、鶏が鳴くまで情の通じることはなかった。

「あの、ありし中納言の子は得させてむや。らうたげに見えしを、身近く使ふ人にせむ。上にも我奉らむ」(いつぞやの中納言の子は、わたしに任せてもらえまいか。かわいらしく見えたから、そばで使ってみたい。主上にもわたしからさしあげて殿上させよう。)
源氏はらうたげに見えしを文使いとする。らうたげ=かわいらしい
男の子にたいしても品定めしているところがさすがである。時代の健全さはそこにある。Platonikotatos

さて、五六日ありてこの子率て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして(物腰もやさしく上品で)あて人と見えたり(良家の子弟といったふうである)。召し入れて、いとなつかしく(いかにもやさしく)語らひたまふ。童心地に(子供心にも)いとめでたくうれしと思ふ(源氏の君をとても立派なお方と思い、うれしく思っている)。姉妹の君(空蝉)のこともくはしく問ひたまふ。さるべきことは答へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。されどいとよく言ひ知らせたまふ。(お答えすべきことはお答え申したりするが、源氏のほうで気恥ずかしくなるくらい落ち着いているので、用向きを言い出しにくい)
源氏は空蝉とは昔からの恋仲だったとかとりつくろい小君を手なづける。小君はそうしたことがあったのかとぼんやりと分ったのも、思いの外であったが、子供心で深くは詮索せずに源氏の手紙を姉のところへ届ける。
姉にとっては不倫となるし小君の思惑もきまりがわるかった。
源氏は小君のことを「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」と求めつつ、空蝉の反応を案じ焦がれるというトライアングル。返事はもらえずに帰ってきた。やはり幼子、思うようにはことを運ばないので源氏は機嫌を損ねて「そなたは知るまいな(以下略」と作り事を話すので、小君は鵜呑みに、さもやありけむ、いみじかりけることかな(これはえらいことだった)と思へる、をかしと思す(源氏の君はその姿をおかしくお思いになる)。
この子をまつはしたまひて(おそばからお放しにならず)、内裏(宮中)にも率て参りなどしたまふ。わが御くしげ殿(衣服を作る役所;さりげに「わが」が入ってるところが面白い)にのたまひて、装束などもせさせ(整えさせて)、まことに親めきてあつかひたまふ(源氏のおもちゃ)。
源氏は手紙をしょっちゅう寄せられる。ある日口実としてよい方角に用事ができ、紀伊守の邸へゆく。
(中略)インターネットを参考-
空蝉はあれこれと思い悩んで、夜小君の出て行った間に渡殿のほうに身を隠す。小君は探しまわったあげくに渡殿に入ってきて、やっとのことで見つけだす。そんな不都合な小君の行動を「幼い人がこうしたことを取り次ぐのは、ひどく慎まなければならないことなのに」と叱責し、「大儀なので人々をそばにおいておりますと申し上げなさい。みな誰もが変だと思うでしょう」と追いやる。小君はせつなくて、さすがに思いに乱れている。
源氏は一連の不首尾のよしを聞いて、空蝉のあさましくめづらかなりける心のほどを、「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」といといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめきてうしと思したり。(毅然と努める空蝉の態度にふられる形となって源氏の君はつらそうで、しばらくものも言わず、ため息もらし、憂ひている)
少君、いといとほしさに、眠たくもあらでまどひ歩くを、人あやしと見るらむとわびたまふ(源氏に気に入られたくて必死の少年の姿。)
いかにも源氏の君がお気の毒なので眠りもどこへやら、うろうろとしている、それを人が変に思いはせぬかと、女君はつらがっていらっしゃる。
お供の人々はぐっすり寝込んでいるのに、源氏の君お一人だけは、ただ無性におもしろからぬお気持でいらっしゃるが、類のない女の気強さが、依然として消えるどころか、立ちのぼるばかりに気位高く保たれているのだと思うと、それがいまいましく、またこうだからこそ心ひかれるのだと、一方では感心なさるものの、心外でもあり恨めしくもあるので、どうともなさるがいい、とお思いになるが、そうも思い切れなくて、「隠れている所に、やはり連れていっておくれ」とおっしゃるけれども、小君は、「いとむつかしげにさし籠められて、人あまたはべるめれば、かしこげに(ひどくむさ苦しそうな奥まった所で、人がたくさんおりますようですから、お連れするのは畏れ多くて)」と聞こゆ(申し上げる)。小君は、お気の毒にと思っている。
「よし、あこだにな棄てそ」とのたまひて、御かたはらに臥せたまへり(他動詞)。若くなつかしき御ありさまをうれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりはなかなかあはれに思さるとぞ(とぞ=伝聞・記録)。
「まあいい。せめてそなただけでもわたしを見捨てないでおくれ」とおっしゃって、おそばにお寝かせになった。小君は、お年若の、心もひきつけられるようにやさしい君のお姿を拝見して、うれしく、お美しいと思っているので、君のほうも、冷淡な姉君よりはかえってこの弟をいとしくお思いになっている、ということである。若くなつかしき~以下はとくに、主語のないところが融和的な印象を醸している。前半が小君の気持ちで、後半が源氏。

夜も更けるとメラトニンが分泌されてくる。メラトニンは睡眠を促す成分であるけれど、眠らなければ性的に作用する。子供は眠ればじっくりと成長し、夜更かしすれば性が目覚めてくる。その高揚に源氏は誘われたのかもしれない。空蝉がどうしても手に入らないので代償にもなった。とはいえ行為は記述されていないし実際されていないだろう。友情とも恋慕ともいえぬ新しい美しさを12才と17歳の間に見る方がいい。


エジソン電気の照度で照らされるようになったのは明治以降。鎌倉時代までの当時は月の明かりにたいする感性の繊細さが残されている。
今の子は成長が早いというけれど、昔はもっと遅かった。小君は12~3歳だがやはり源氏の君にも空蝉にも幼いとしか見えないらしい。しかし現代のようにドール的ではなく、奥行きのある感性や直截的でない所作が人間的である。幼さのままに涵養されているゆえに、じつにその幼さがらうたげ。環境ホルモンにも無縁で、登場人物はどれも個性あはれで感覚の気持ちのよさがある。動物的にならずによく薫習して育っている。あまりに成長が早いと、駆け引きをするという過程を踏めなくなる。紫式部自身もあたりまえのように教条じみてない

空蝉の巻
寝られたまはぬままに、「我はかく人に憎まれても習はぬを、今宵なむ初めてうしと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくてながらふまじくこそ思ひなりぬれ」などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさま通ひたるも、思ひなしにやあはれなり。
お寝みになれぬままに、「わたしは、こうも人に憎まれたことはこれまでもなかったのに、今夜という今夜は、はじめて人の世がままならぬものと身にしみて分かったから、恥ずかしくて、もうこのまま生きてはおられそうもない気がする」などとおっしゃるので、小君は涙をさえこぼして横になっている。(やや情緒不安定)
ほんとにこの子はかわいいと源氏の君はお思いになる。手触りから知った、ほっそりと小柄な女の体つきや、髪のあまり長くなかった感じがこの子の様子に似通っているのも、気のせいであろうか、しみじみと愛着をそそられる。
姉弟のさし通ひたるところを源氏は感じ取られているが、桐壷の子の源氏、空蝉の弟の小君、という観点についても性格が似ている。

小君は源氏に付き添うようになってからは、夜更かしの半睡の日々が続く。空蝉も同じで、あやしく夢のやうなることが心を離れず、心とけたる寝だに寝られずなむ、昼はながめ(昼は物思いにうつけ)、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木のめもいとなく(春の「木の芽」ならぬ「この目」も休まる暇がなく)嘆かしきに、碁打ちつる君、今宵はこなたにと、いまめかしくうち語らひて寝にけり。
それでも源氏の君に靡かずにいるのだから空蝉もたぐい稀なる女である。
昨夜は空蝉の操を守る態度に、小君は子供心に思案に乱れていたのだけど、世を知らない子供らしかった。年齢差こそあれ、深く考える姿や、けはひあてはかな姿、人がらのたをやぎたるところなど姉弟らしい。空蝉が小柄なところもまた小君へ愛情が及ぼしている。とりわけ美形ではなく地味な顔立ちとか、上流ではないけど良家に育っている素朴さとか、そういう奥ゆかしいのに本当に惹かれるものである。いくらビジュアル的に洗練されていようがカラコンには惹かれないだろう。
源氏にたいして小君は繊細な認識を保つ。かかる方にても、のたまひまつはすはうれしうおぼえけり。自分を愛するのではなく姉の空蝉が目当てであっても、源氏に親しく言葉をかけていただけるのがうれしいといういたいけな加減である。これは自分の性別に自認がないこともない時期の微妙な謙虚さ。性別が固まれば宙には浮いてられない。途中からあびるになる。また小君がえてして中心的な立場に置かれないところも、効して読者の嫉妬を誘う。偉い人間には嫉妬しないが、小君にはなぜか嫉妬する。

この話の、女君たちがうちとけて碁をうってるのを眺める源氏の君は、鎌倉時代に流行した絵のモチーフらしい。高貴な女は顔を見られてはならないというのがいい。傘美人みたい。源氏の行動は覗きにかわりはないが、源氏が上流の中の上流で、しかも洒脱しているので絵になるのだろう。
小林秀雄は非常にまともな人なので(あんなにまともな人はいない。東大の鏡のような)、源氏を「あんな化け物じみた」とかいう。僕はまだ10分の1しか読んでいないのでなんとも判断できないけど、僕ぐらいになると源氏という人物にはいたく共感するもので、「紫式部がもののあはれを託するに、聖人が主人公ではやっぱりだめで、光源氏のような人物になるしかなかった」という小林秀雄の見識もわかるけど、やっぱり僕には源氏自身がわかるのだ。なぜ小林秀雄はそんな批評になったのかと思うけど、たぶん源氏の君の泣く姿が美しいところとかを忌んだんだろうな。僕もあまり好きではない。とはいえ源氏をプレイボーイと据えて源氏物語は自由奔放な性の艶やかさを描かれた物などと有り触れた共同幻想で診断されると、こいつは実際には読んでいないな、と思えるのである。小林秀雄もよく糾弾していた。ははき木の冒頭にもある。光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたまふ咎多かなる(伝聞・推定)に、いとど(さらに)、かかるすき事どもを末の世にも聞きつたへて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ語りつたへけん人のもの言ひさがなさよ。さるは(実際のところ)、いといたく世を憚りまめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野の少将(散逸古物語の主人公で好色で当時有名)には、笑はれたまひけむかし。

物語り上の主人公はなにやら生きて存在しているかのような気にもなる。小君のことを想っていたからか、最近いろいろなものが見えるようになってきたおばあさんが、「僕の部屋にかわいらしい子が来とらんか」という。母親は「来とらん来とらん」という。

小君、御車のしりにて(後ろに乗って)、(源氏の君は)二条院におはしましぬ。ありさま(今夜のいきさつ)のたまひて、「幼かりけり(そなたはやっぱり子供だったな)」とあはめたまひて、かの人(空蝉)の心を爪はじきをしつつ恨みたまふ。(小君は)いとほしうて(お気の毒で)ものもえ聞こえず。「(空蝉は私を)いと深う憎みたまふべかめれば、身もうく思ひはてぬ。などかよそにても、なつかしき答へばかり(返事ぐらい)はしたまふまじき。伊予介に劣りける身こそ」など、心づきなしと思ひてのたまふ。
そうはいってもやはり、先刻の空蝉の残していった薄衣をお召物の下に引き入れて、お寝みになった。小君をおそばに寝かせて、あれこれ恨み事を言ったり、睦言をかわしたりなさる。
「あこはらうたけれど、つらきゆかりにこそえ思ひはつまじけれ」と、まめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。(「そなたはかわいいと思うけれども、つれない人の縁者だから、どこまでもわたしの気持が変わらないというわけにはいくまいね」と真顔でおっしゃるのを、小君はほんとにつらく思っている。)

源氏物語は人間の機微をふんわりとした流れのうちに書いてある。読み進めると次第に恋慕のみに捉えられることなく、源氏物語の世界が全体的に面白くなってくる。自分ではコメントも分析もできないあはれな領域になる。さりげに出てきた悟りの事柄についても洞見適切であるし、なぜ小君がこんなにも自然に書き込まれているかを考えると、想像以上の世界に連動していたと思うしかない。真似できない。
比較すれば、ハンスギーベンラントとか子供時代のシンクレールは、小君にくらべると出来過ぎている。感じやすいところは共通するも、イデアとしてはわかりやすい少年像である。また源氏物語は作中の主語が現代の日本語や外来語のようにはっきりとしていないところも、情緒から推測できて読むことが今より優れていたという側面をあらはす。尊敬と謙譲が生きているのも人間と人間の関係のみでない、人間と神の関係においても情緒的・物理的に素直な調和を保つ。神や自然を畏敬し、下神にたいしては障らぬ神に祟りなしと恐れるのが普通の日本人の素直なアトモスフィアで。そういうのが生きている時代にしか書けないものがある。
夏目漱石が言う通り「真理ほど脆弱なものはない。詭弁ほど堅固なものはない」。詭弁に抗すれば詭弁になる。真理は音楽や小説でアトモスフィアに現される。
スピリチュアルは論外としても、ヘッセをはじめとして、文学といふものは深入りするほどに金箇条じみたところが同時に顔を出してくるようで、それは完璧主義による弊害か、恩寵か、硬質な色づけにはなるも、やはり骨格を為さずにも生きていられる「もののあはれ」こそ、篤に得がたいものと思う。日本国の史記である古事記も、箴言とか格言とかマクシムのようなものがまるっきり出てこない。ゆえにかみが人間じみていない。かみが保たれる。人間の観念に成り下がらない。現象は一筋縄にはいかないものであるし、縛りつけるものが出てこないのはすごいことだと思う。かわりに歌で意志が交わされている。なんというお国柄でしょう。ほんとうにルソーの理想はここにある。オーディオでも同じことが言えて、TANNOYとかMcIntoshという伝統を大切にした濃厚な音、音の生命の吹き上がるのは、先進のコヒーレントな解像よりも為しがたいもの。後者は一般にプアピュアオーディオとかいわれるゆえ、僕もそれにあやかりつつも、やっぱりAutographのある部屋の雰囲気とか、McIntoshで鳴らされたJBLなど素晴らしい。日本的な美意識ならLYRAとか。舶来のAmbrosia、HARBETH、QUADのESLなどは買えなくても欲しいし、たいせつにするべきものは多い。前世紀でもロクサンとかONKYOのセプターとかALTECとかSANSUIの一部などまことに優れている。まことに児湯の中にいられる音。決して文字をださない。それらは業務的にこなすのではなく、音楽性になろうとして唄っている。

夕顔
源氏物語は源氏の幼少から老いゆくまでを追っている。高校では桐壷から夕顔までの一部だったと思うけど、その後の生涯も人生経験の堆積に比例して読みたい。己の持論も物語のうちに奏効していると思われる。
小君は使いぱしりとしてしか登場しなくなるけれど、 夕顔の話もおもしろかった。夕顔はアニメにも出てきそうなやはらかなおとぼけキャラ。人のけはひ、いとあさましく(信じ難いくらい)やはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから(幼な幼なしいものの)世(男女の交わり)をまだ知らぬにもあらず、いとやむごとなき(格別の素性)にはあるまじきこの女のどこにこうも心ひかれるのか源氏はわからずままに、ものぐるほしい時を過ごす。ついに八月十五日の夜に夕顔を誘う。次の日に荒れた廃院へゆくが、その夜に奇怪な夢に目が覚め、恐怖で息も絶え絶えの夕顔は息絶える。枕元にふと夢の女が覗かせられる。この魔障は桐壷のころよりの因縁か、あるいは物語り埒外にある民の怨念が舞い降りたものか、その怨念をかむって上流を恨んでいた者が物の怪となり源氏らに降りついたのか。想像はいろいろと飛翔するも、八月十五日とか八月十六日というのは一体なんなのかはわからない。
当時源氏物語は人々の頽廃を促す書物という評判もあったようだけど、幸福の科学によれば紫式部は霊層のかなり高い人のようだ。僕もそう思う。幸福の科学自体はそれほどでもないと思うけど。僕もそうだが。清少納言よりもひとつ階層が上らしい。天才とはそういうものかもしれないけれど、あの物語の真実味からすると、なにかに通じていたようにも思える。瀬戸内寂静の講演CDを聴いてもそう思う。小説を書く際に、登場人物が意識をもって勝手に動き出す、みたいな作用は自動書記チックにも思えるが、そういうのが本当にいい小説らしい。瀬戸内寂静さんも全部の作品ではないがそういう風になって書かれたものもあって、それがお気に入りのもよう。


参考文献:小学館の源氏物語① <全六冊> 新編 日本古典文学全集
平安文学を専門に学んできた学者の方々にしか書けない訳とか注記なので著作権は厳密です。