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小林秀雄 『骨董』
1 名前:tukipie 2005/01/03 21:41
 幸田露伴に骨董という文章がある。定窯の鼎の贋物をめぐって、人殺しがあったり、自殺者が出たりする明末の実話で、骨董いじりも並大抵のことではない。まことに美は危険なる友である。露伴はこの実話を書くに当って、これは、骨董というものについて、一種の淡い省吾を発せしめるといっているが、僕も、自分の貧しい経験を省み、骨董について僕なりの省吾がないことはない。
 友人に非常な焼き物好きがいたお蔭で、古い陶磁器を見る機会は、学生の頃から多く、見るのは嫌いではなかった。しかし、相手はたかが器物とはいえ、嫌いではないと好きとの間は、天地雲泥の相違があると思い知ったのは、余程後からのことであった。ある日、その友人と彼の知り合いの骨董屋の店で、雑談していた折、鉄砂で葱坊主を描いた李朝の壷が、ふと眼に入り、それが烈しく僕の所有欲をそそった。吾ながらおかしい程逆上して、数日前買って持っていたロンジンの最新型の時計と交換して持ちかえった。どうも今から考えるとその時、言わば狐がついたらしいのである。

2 名前:tukipie 2005/01/03 21:42
 露伴の説にしたがえば、骨董という字は、本当をいうと、もともと何が何やらわけの解らぬ時だそうである。恐らく、そのせいであろうが、骨董という文字には一種の魔力があって、人を捕える。骨董と聞いて、いやな顔をする人だって同じ事だ。相手に魔力があればこそだ。骨董という言葉が発散する、何とも知れぬ臭気が堪らないのである。だから、骨董というかわりに、たとえば古美術などといってみるのだが、これは文字通り臭いものに蓋だ。骨董という言葉には、器物に関する人間の愛着や欲念の歴史の目方が積りに積っていて、古美術というような蓋は、どうも軽過ぎる気味があるようである。しかし、現代の知識人達は、ほとんどこのことに気づいていない。彼等は美術鑑賞はするが、骨董いじりなどしないからだ。これらの二つの行為はどう違うか、骨董いじりを侮り、美術鑑賞において何ものを得たか、そういうことを、ほとんど考えてみようとしないからである。

3 名前:tukipie 2005/01/03 21:43
 骨董はいじるものである。美術は鑑賞するものである。そんなことをいうと無意味な酒落のように聞こえるかも知れないが、そんなことはない。この間の微妙な消息に一番早く気づいたのは骨董屋さん達であって、誰が言いだしたともなく、鑑賞陶器という、昔は考えてもみなかった言葉が、通用するに至っている。言葉は妙だが、骨董屋さんの気持ちから言えば、それはいじろうにも、残念ながらいじれない陶器をいうのである。鑑賞陶器という新語の発明が、いつごろか無論はっきりしないが、おそらく昭和以後の事であろうと思えば、日本人が陶器に対して、茶人的態度を引き続きとっていた期間の驚くほどの長さを、今さらのように思うのである。
 僕は、茶道の歴史などにはまるで不案内であるが、茶器類の不自然な衰弱した姿が、意外に早くから現れているところから勝手に推断して、利休の健全な思想は、意外に短命なものだったのではあるまいか、と思っている。しかし、茶道の衰弱と堕落の期間がいかに長かったとはいえ、器物の美しさに対する茶人の根本的な態度、美しい器物を見ることと、それを使用することが一体となっていて、その間に区別がない、そういう態度は、極めて自然な健全な態度であるとは言えるのである。焼き物いじりが僕にそのことを痛感させた。僕も現代知識人の常として、茶人趣味などにはおよそ無関心なものだが、利休が徳利にも猪口にも生きていることは確かめ得た。美しい器物を創り出す行為を美しい器物を使用するうちに再発見しようとした、そういうところに利休の美学(妙な言葉だが)があったと言えるなら、それが西洋十九世紀の美学とほとんど正面衝突をする様を、僕の焼き物いじりの経験が教えてくれた。そしてこの奇怪な衝突は、茶人が隣の隠居となり終わった今日でも、しかと経験し得るものなのである。

4 名前:tukipie 2005/01/03 21:44
 先日、何年ぶりかで、トルストイの「クロイチェル・ソナタ」を読み返し、心を動かされたが、この作の主人公の一見奇矯と思われる近代音楽に対する毒舌は、非常に鋭くて正しい作者の感受性に裏付けられているように思われた。行進曲で軍隊が行進するのはよい、舞踏曲でダンスをするのはよい、ミサが歌われて、聖餐を受けるのはわかる、だが、クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。誰も知らぬ。わけの解らぬ行為を挑発するわけの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の聴衆は、行為を禁止されて椅子に釘付けになっている。
 行為をもって表現されないエネルギイは、彼等の頭脳を芸術鑑賞という美名の下にあらゆる空虚な妄想で満たすというのだ。何と疑い様のない明瞭な説であるか。心理学的あるいは哲学的美学の意匠を凝らして、身動きも出来ない美の近代的鑑賞に対しては、この説は、ほとんど裸体で立っていると形容してよいくらいである。周知のように、トルストイは、ここから近代芸術一般を否定する天才的独断へ向かって、真っすぐに歩いた。無論そんな天才の孤独が、僕の凡庸な経験に関係があるわけはない。ただ、彼が遂にあの異様な「芸術とは何か」を書かざるを得なくなった所以は、彼が選んだそもそもの出発点、彼の審美的経験の純粋さ素朴さにある。その裸のままの姿から、強引に合理的結論を得ようとしたところにある。これは注意すべきことなのである。

5 名前:tukipie 2005/01/03 21:44
 もし美に対して素直な子供らしい態度をとるならば、行為を禁止された美の近代的鑑賞の不思議な架空性に関するトルストイの洞察は、僕達の経験にも親しいはずなのである。昔は建築を離れた絵画というような奇妙なものを誰も考えつかなかったが、近代絵画には額縁という家しか、本当に頼りになる住居がなくなって来ている。そういう傾向に発達して来ているから、従ってそういう傾向に鑑賞されざるを得ない。展覧会とか美術館とかいう鑑賞の組織を誰が夢想し得たろうか。あそこにみんなが集って、いくらかずつ金を払って、グルグル回ってキョロキョロしている。こういう絵画の美とも日常生活とも関係のない、夢遊病者じみた機械的運動は、不自然な点では、音楽会で椅子に釘付けされているのと同じことで、空想によって頭脳だけを興奮させるために払わねばならぬ奇怪な代償である。しかもこれは観念過剰の近代人にはどうしても必要なことになってしまっている。必要なことを自然なことと思いこむのもまた無理のないことで、だから、展覧会を出たり、音楽会を出たりした時の不快な疲労感について反省してみることもない。美が人に愉快に行為を禁じて、人を疲れさせるとは、何と奇妙なことだろう。美は逆に、人の行為を規正し、秩序づけることによって、愉快な自由感を与えてくれて然るべきではないか。美は、もはやそんな風には創られていないし、僕らもそんな風にはそれを享受出来ないのである。

6 名前:tukipie 2005/01/03 21:46
 買ってみなくてはわからぬ、とよく骨董好きはいうが、これは勿論、美は買う買わぬには関係ないと信じている人々に対していうのであって、骨董とは買うものだとは仲間ではわかりきったことなのである。なるほど器物の美しさは、買う買わぬと関係はあるまいが、美しい器物となれば、これを所有するとしないとでは大変な相違である。美しい物を所有したいのは人情の常であり、所有という行為に様々の悪徳がまつわるのは人生の常である。しかし一方、美術鑑賞家という一種の美学者は、悪徳すら生む力を欠いているということに想いを致さなければ片手落ちであろう。博物館や美術館は、美を金持ちの金力から解放するという。だが、何者に向かって解放するのかが明らかでない。もし、そこに集るものが、硝子越しに名画名器を鑑賞し、毎日使用する飯茶碗の美にはおよそ無関心な美的空想家の群れならば。また、彼らの間から、新しい美を創り出すことにより、美の日常性を奪回しようとするものが現れるのは、おそらく絶望であるならば。
 僕は骨董いじりの弁護をしているのではない。それは女道楽を弁護するくらい愚かなことだ。しかし、僕はこんな風に考える――美を生活の友とする尋常な趣味生活がほとんど不可能になってしまった現代に、人々が全く観念的な美の享受の世界に追い込まれるのは致し方のない傾向だとしても、この世界を楽しむのが、女道楽より何か高級な意味あることだと思い上がっているのは滑稽である。また、この滑稽を少くとも美の享受の道を通じて痛感するためには、骨董いじりという一種の魔道により、美と実際に交際してみる喜怒哀楽によるほかはないとは悲しむべき状態である。

7 名前:tukipie 2005/01/03 21:49
オーディオなんてとうの昔に満足しきっている筈、なのになぜまたオーディオについて考え始めなければならないのかと考えていた。
昨日この小林秀雄の『骨董』を読んですごいタイムリーな内容だった。この「骨董」というものをオーディオに当てはめて考えてみるとなんだかとってもすっきりした。行為をもって表現されない音楽のエネルギーのゆくえ・・・ 目の前にあるものがオーディオだから、CD再生中、用もないのにオーディオをいじりだすのは仕方のないことだったんだね。骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである。買ってみなくてはわからない。あるいは作ってみないとわからない。「ケーブル地獄」というがそんなオーディオマニアは「身動きの出来ない鑑賞」という本物の地獄から抜け出すいわば蜘蛛の糸にぶら下がった状態なんだな。

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あにくらダイアリー 左からゆきちゃんとこうちゃんとそらくん。日記ソフトがいい。動作がかわいい。打ち込む文字によって反応があって、「あにくら」だと一回転する。日記帳は続かないものだけど、パソコンで作る日記なら結構つづくかも。データファイルはちゃんとMOかなんかに保存しておきましょう。
山野療法院 東京にいた頃にお世話になっていた方。この前、釜鳴り神示見せてもらいに行った。すごく面白い音響を醸してた。神はエネルギー体そのものだね。僕には霊感と呼ばれるものがあるのだけど、目の前にいると、正直びびるね。まぁそんなことはどうでもよいが、神様とか仏様に従ってみるのも人生に於いては大いに価値のあるひととき。たいせつにしよう。

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