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『方法序説』
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1 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/21 23:48 [URL]
デカルトの方法序説抜粋
岩波文庫 谷川多佳子 訳

『方法序説』は1637年、デカルトが41歳のとき、オランダのレイデンでヤン・マイレ書店から、著者名なしで出版された。正確なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』
全体で500ページを越えるこの大著の最初の78ページが『方法序説』であり、三つの科学論文集の序文となっている。−解説より−

2 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/21 23:01
第二部
その頃わたしはドイツにいた。いまなお終わっていない戦争(三十年戦争)がきっかけで、呼び寄せられたのだ。皇帝の戴冠式から軍隊にもどろうとしたとき、冬が始まって、ある冬営地に足留めされた。そこでは気を散らす付き合いもなく、またさいわい、心を乱す心配事や情念もなかったので、わたしは終日ひとり炉部屋に閉じこもり、心ゆくまで思索にふけっていた。それらの思索の、最初の一つは、次のことを考えてみようと思いついたことだ。たくさんの部品を寄せ集めて作り、いろいろな親方の手を通ってきた作品は、多くの場合、一人だけで苦労して仕上げた作品ほどの完成度が見られない。たとえばよくあることだが、一人の建築家が請け負って作りあげた建物は、何人もの建築家が、もともと別の目的で建てられていた古い壁を生かしながら修復につとめた建物よりも、壮麗で整然としている。同じく、はじめは城壁のある村落にすぎなかったのが時とともに大都市に発達していった古い町は、一人の技師が思い通りに平原に線引きした規則正しい城塞都市にくらべると、ふつうひどく不揃いだ。そうした古い町の建物を一つ一つ切り離して見ればたいてい、ほかの町の建物と同じかそれ以上の技巧が見いだされはするけれど、建物がここに大きいの、あそこに小さいのと立ち並んで、通りが曲がりくねった高低の多いものになっており、それを見ると、こんなふうに配置したのは、理性を具えた人間の意志ではなく、むしろ偶然なのだ、と言いたくなるほどである。だがいつの時代にも、役人たちが私人の建物を公共の美観に資するよう管理に務めてきたのを考えると、他人の作ったものを基にしてだけでは、完成度の高いものを作りだすのが難しい、とよくわかるだろう。またわたしは次のことも思い描いてみた。半ば未開だったむかし、わずかずつ文明化してきて、犯罪や紛争が起こるたびにただ不都合に迫られて法律をつくってきた民族は、集まった最初から、だれか一人の賢明な立法者の定めた基本法を守ってきた民族ほどには、うまく統治されないだろう、と。同様に、唯一の神が掟を定めた真の宗教の在り方は、他のすべてと、比較にならぬほどよく秩序づけられているはずなのは確かである。そして人間界のことでは、わたしの思うところ、むかしスパルタが隆盛をきわめたのは、その法律の一つ一つが良かったためではない。というのは、ひどく奇妙な法律や、良俗に反する法律さえも多かったからだ。そうではなく、それらの法律がただ一人によって創案され、そのすべてが同一の目的に向かっていたからである。またわたしはこう考えた。書物の学問、少なくともその論拠が蓋然的なだけで何の証明もなく、多くの異なった人びとの意見が寄せ集められて、しだいにかさを増してきたような学問は、一人の良識ある人間が目の前にあることについて自然〔生まれながら〕になしうる単純な推論ほどには、真理に接近できない、と。同じように、さらにこう考えた。われわれはみな、大人になる前は子供だったのであり、いろいろな欲求や教師たちに長いこと引き回さねばならなかった。しかもそれらの欲求や教師は、しばしば互いに矛盾し、またどちらもおそらく、つねに最善のことを教えてくれたのではない。したがってわれわれの判断力が、生まれた瞬間から理性を完全に働かせ、理性のみによって導かれていた場合ほどに純粋で堅固なものであることは不可能に近い、と。
次のパラグラフには、その時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、ということが書かれている。(禅宗の法と同じ)

3 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/21 23:13
〈中略〉こうした理由でわたしは、あの騒々しくて落ち着きのない気質の人たちをけっして容認できないのだ。かれらは、生まれからも社会的地位からも、公事を扱うよう要請されてもいないのに、いつも何か新しい改革を頭のなかで描かずにはいられない。もしもこの著作のなかで、こうした愚かさがわたしにあると少しでも疑われると考えたら、本書の公刊を黙認できなかったと思う。わたしの計画は、自分の思想を改革しようと努め、わたしだけのものである土地に建設することであり、それより先へ広がったことは一度もない。自分の仕事が十分気に入って、ここでその見本をお目にかけるといっても、だからといって、これを真似ることをすすめたいのではない。紙からもっとゆたかな恩寵を分け与えられた人は、一段と高尚な計画を抱くことだろう。しかしわたしのこの計画だけでもすでに、多くの人たちにとって大胆すぎるのではないかと、大いに危惧している。かつて信じて受け入れた意見をすべて捨て去る決意だけでも、だれもが従うべき範例ではない。そして世のなかは、この範例にまったく適しない二種の精神の持ち主だけから成り立っているようでもある。第一は、自分を実際以上に有能だと信じて性急に自分の判断をくださずにはいられず、自分の思考すべてを秩序だてて導いていくだけの忍耐心を持ち得ない人たち。したがってかれらは、ひとたび、受け入れてきた諸原理を疑い、常道から離れる自由を手に入れるや、まっすぐ進むために取るべき小道をたどることはできないで、一生さまよいつづける。第二は、真と偽とを区別する能力が他の人より劣っていて、自分たちはその人たちに教えてもらえると判断するだけの理性と慎ましさがあり、もっとすぐれた意見を自ら探求しないで、むしろ、そうした他人の意見に従うことで満足してしまう人たちである。

4 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/22 00:15
そこに迷いこまないためには
第一に、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。(第四部冒頭のコギト・エルゴ・スムの展開のが面白い)
第二は、検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
第三は、思考の順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。

5 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/21 23:44
きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も達成する。それはわたしに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだと、すでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人びとのうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見いだしえたのは数学者だけであったことを考えて、わたしは、これらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった。もっともそこからわたしが期待した効用は、精神が真理に専心し、誤った論拠に満足しないよう習慣づけることだけだったけれど。しかし、だからといって、ふつう数学と呼ばれている、あの個々の学科すべてを学ぼうとするつもりはなかった。これらの学科が、対象は異なっても、そこに見いだされるさまざまな関係つまり比例だけを考察する点で一致することになるのを見て、こう考えた。これらの比例だけを一般的に検討するのがよい、その際そうした比例を、わたしにいっそう容易に認識させてくれるのに役立つような対象があれば、そのなかにだけ想定し、しかもそうした対象にだけ限るのだけではなく、それが当てはまるような他のすべての対象にも、後になっていっそううまく適用できるようにする、と。次に、こうした比例を認識するために、ときにはそれらを一つ一つ別々に考察する必要があり、ときにはただそれらを記憶にとどめ、多くを一度に把握する必要があるのに気がついて、こう考えた。比例を個別的にいっそうよく考察するためには、これを線として想定すべきこと。線以上に単純で、線以上に判明にわたしの想像力や感覚に表象できるものはなかったからだ。 しかし、それらの比例を記憶に保持し、多くを一度に捉えるためには、できるだけ短い、ある種の記号で示す必要があること。そしてこのようなやり方で、幾何学的解析と代数学とのあらゆる長所を借り、しかも一方の短所すべてをもう一方によって正せる、と。(ノイズキャンセリング)

6 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/19 23:49
第三部
さて最後に、住んでいる家の建て直しを始めるまえには、それを取り壊し、資材を用意し、建築技師にたのむか、あるいは自分で建築術を実地に学ぶかして、そのうえで周到に図面を引いたとしても、それだけでは十分でない。工事の期間中、居心地よく住める家をほかに都合しておかなければならない。それと同じように、理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、そしてその時からもやはりできるかぎり幸福に生きられるように、当座に備えて、一つの道徳を定めた。それは三つ四つの格率から成るだけだが、ぜひ伝えておきたい。

7 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:03
第一の格率は、わたしの国の法律と慣習に従うことだった。その際、神の恵みを受けて子供のころから教えられた宗教をしっかりと変わらずに守りつづけ、他のすべてにおいては、わたしが共に生きなければならない人のうちで最も良識ある人びとが実際に広く承認している、極端からはもっとも遠い、いちばん穏健な意見に従って自分を導いていく。というのも、わたしは自分の意見をすべて検討に付そうと思って、その時からすでにそれらを無に等しいものとみなしはじめていたので、いちばん良識ある人たちの意見に従うのが最善と確信していたからだ。おそらくペルシア人や中国人の間にも、われわれの間にいるのと同じぐらい良識を具えた人びとがいるであろうが、わたしには、自分が共に生きることになる人びとに従って自分を律するのがもっとも有益だと思われた。そしてその人たちの意見が実際にどのようなものかを知るには、かれらの言うことよりもむしろ行うことに注意すべきだと思われた。その理由はただ、われわれの道徳が退廃してくると、自分の信じることをすべて言おうとする人はほとんどいなくなるし、そればかりか、多くの人は自分が何を信じているか自分でも分からなくなるからである。人があることを信じる思考の働きは、それを信じていると認識する働きとは異なっていて、この両者は互いにもう一方を伴わないことがたびたびあるからだ。さらにわたしは、等しく受け入れられているいくつもの意見のうち、いちばん穏健なものだけを選んだ。一つには、あらゆる極端は悪いのが通例であり、穏健な意見は行うのにいつもいちばん都合がよく、おそらくは最善であるからだ。また一つには、穏健な意見に従えば、やりそこねた場合にも、両極端の一方を選んだあとにはもう一方をとるべきだった、とわかるよりも、真の道からの隔たりが少なくてすむからだ。そして特にわたしは、自分の自由をいくらかでも削るような約束は、すべて極端の部類へ入れた。とはいえ、次のような法を認めないわけではない。法は、弱い精神の動揺を癒すために、何らかの善い計画を持つとき、あるいは善悪にかかわらない計画を持つときにさえも、取引の安全のために、誓願や契約をなすことで、いやでもその計画を貫かせてくれる。約束を極端の部類に入れたのは、そうした法を認めないからではない。この世にはいつも同一の状態でとどまっているものは一つもないと認め、とくにわたし自身、自分の判断をしだいに完成させこそすれ、けっして悪くはしないと心に決めていたので、もしその時あることを是認したために、後になってそのことがひょっとして善でなくなるか、わたしが善だと認めなくなったときにも、なおそれを善とせざるをえなかったとしたら、わたしは良識にたいして大きな過ちを犯すことになる、と考えたからである。

8 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/29 19:44
第二の格率に書かれているのは、真偽の見分けをつける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然性の高い意見に従うべきだということ等について。旅人はあちらに行き、こちらに行きしてぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一箇所にとどまっていてもいけない。森の中にいるよりは一度決めた方角に従うほうがたぶんましだろうから。弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてからの解放。
第三の格率は必然を徳とすることについて。運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること。一般に完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけること。したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶對的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まないこと。(以下省略)
デカルトはどちらかというと哲学のほうはメインではなかった。パスカリーナを作ったパスカルのように。付随的に生まれたこの方法序説は、全六部に分けられていて、第一部から第三部には道徳的エッセンスが詰まっている。その宗教・哲学的持論はデカルト自身より簡潔な内容だからよどみなく、限界以上のことをのべようとしてないから苦しくない。あっさりとしつつ、濃密な読み応えがある。

9 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:04
第四部は形而上の考え方について
集団幻想にもつうじる

10 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:04
第五部はデカルトの神觀;特に魂について
その魂觀はコスモゾーンにつうじる

11 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:12
第六部はデカルトの事情について
さて今から三年前、わたしはこれらすべてを内容とする論文(『世界論』)を書きあげて、印刷業者の手に渡すために見直しを始めていたのだが、そのとき次の知らせに接した。わたしが敬服する方々、しかも、わたし自身の理性がわたしの思想に及ぼす権威に劣らぬほどの権威をわたしの行動に及ぼす方々が、ある人によって少し前に発表された自然学の一意見(ガリレイの『天文対話』)を否認した、というのである。わたし自身同じ意見だったと言うつもりはないが、しかし次のことは言っておきたい。その方々の検閲が出るまでは、宗教にたいしても国家にたいしても有害だと想像されそうな点、したがって、もし仮に理性によってわたしが納得したならば、それを書くのを妨げるような点を、少しもその意見のなかに認めなかった、と。そして、きわめて確かな論証をもたないかぎりけっして新しい意見を信用しないように、また、人の不利益になりそうな意見はけっして書かないように、わたしはつねに細心の注意をはらってきたのだが、このような事件があると、それでもやはり自分の意見のなかに何か思いちがいがありはしなかったと心配になった、と。自分の意見を公表しようとしていたわたしの決意をひるがえさせるには、これだけで十分だった。というのは、以前にこれを公表しようと決意した理由はたいへん強固なものだったが、わたしの性向として、本を出すという職業がいつも嫌だったので、それを断る口実となるほかの理由がすぐ見つかったからである。そしてこういう理由はいずれも、わたしがここでそれを述べておきたいばかりでなく、おそらく一般の人[公衆]もそれを知りたいと思われるだろう。

12 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:29


13 名前:投稿者 :削除
この記事は投稿者によって削除された

14 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:46
だがこの頃から、ほかのいろいろな理由があって、わたしは意見を変え、次のように考えるに至った。つまり、多少とも重要だと判断するすべてのことを、その真理の発見に応じて書きつづける、しかもそれを、印刷させようとする場合と同じくらいの周到な注意をもって書きつづけることが本当に必要なのである。一つには、こうしたことを十分に検討する機会をそれだけ多く持つためで、多くの人に見られるにちがいないと思うものは、自分のためだけに書きとめておくものよりも、つねにいっそう丹念に見るのは明らかだし、また考え始めたときには真実だと思われたことが、紙に書こうとするときには虚偽に見えることもしばしばだったからだ。また一つには、できることなら、公衆の役に立つどんな機会も失わないためであり、わたしの書いたものがいくらかでも価値をもつなら、わたしの死後それを手にする人たちが、いちばんふさわしいやり方でそれを活用できるようにしたいためでもあった。けれども、わたしの生存中それが公表されることにはいっさい同意してはならないと考えた。わたしの書いたものはおそらく反駁や論争を免れないだろうし、それがわたしにもたらす名声がどんなものであっても、そうしたことが、自分を導くために使おうと予定している時間を失うきっかけになることは絶対避けたいからである。というのも、なるほど人間はだれも、自分の力にかなうかぎり、他人の幸福をはかる義務があり、だれの役にも立たないのは本来何の価値もないのだが、しかしわれわれの配慮は現在よりもずっと先にまで及ぶべきであり、いま生きている人びとに何かの利益をもたらすかもしれないことでも、別のことでいっそう多くの利益を後世にもたらすことをする意図のあるときは、割愛してよいからである。たとえば現に、今までわたしが学んだわずかばかりのことは、わたしのまだ知らないことに比べればほとんど無に等しい、しかもわたしはまだ学びうるという希望を捨てていない、このことを知っていただきたいと思う。というのは、諸学問のなかで少しずつ真理を発見していく人は、金持ちになり始めた人たちが、まえに貧乏だった頃はるかに少ない利益を得るのに費やした労力にくらべて、少ない労力で大きな利を得るのと、よく似ているからである。あるいは、軍の指揮官にたとえることもできる。指揮官は、勝利に比例して兵力を増すのがつねであり、戦いに敗れたあとでは、勝利のあとに都市や地方を占領するときよりも、兵力を持ちこたえるためにずっと大きな指導力を必要とする。われわれが真理の認識に到達するのを妨げるあらゆる困難や誤謬を克服しようと努力するのは、まさしく戦うことであり、多少とも一般的で重要なことについて何か誤った意見を受け入れることは、戦いに敗北することだからである。敗北のあとでは、前と同じ状態に戻るために、確証された原理を手中にして大きな進歩をなすのに必要なよりもはるかに多くの機略を必要とする。わたし自身については、これまで諸学問において何か真理を発見したとすれば――本書の内容から、わたしが真理をいくつか発見したと判断していただけると思う――、それはわたしが克服した五つ六つの主要な難問の帰結、およびそれから派生するものだけであり、それを運にめぐまれて勝利を得た一つ一つの戦いとして数える、ということができる。しかも遠慮なく言えば、わたしの計画を終局まで完全になし遂げるには、あと二つ三つの同じような戦いに勝利を収めさえすればよいと考えているし、わたしはそれほど年をとってもいないから、自然の普通の流れからゆけば、これを実現するためにまだ十分な時間的余裕を持つことができる。しかしわたしは、残された時間をうまく使えるようにという希望が強いだけに、いよいよそれを無駄なく使わなければならないと思う。そして、もしわたしの自然学の基礎を公表すれば、この時間を失う多くの機会ができるにきまっている。というのも、この基礎はほぼすべてきわめて明証的で、理解しさえすればただちに真だと信じざるをえないほどであり、また一つとして論証できないと思われるものはないのだが、それにもかかわらず、他の人たちの各種各様のあらゆる意見と一致するのは不可能であることから、これが引き起こす諸反駁によって、わたしがたびたび仕事から心をそらされてしまうことが予測されるのである。

15 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:47
第六部はデカルト的に生まれ、同じ目的をもっている者のために描かれているかのようでもある。

16 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 00:54
こうした反駁は有益であろうとも言える。わたしの誤りを知らせてくれるし、またわたしに何かよい点があるとすれば、ほかの人たちも反論を通じてその理解を深めてくれる。そして多数のほうが一人の人間だけよりも多くを見ることができるのだから、今からすぐにわたしの自然学の基礎を利用し始めれば、ほかの人たちもそれぞれの発見によってわたしを助けてくれることになる。しかし、わたしは自分がきわめて誤りを犯しやすいことを認めており、また最初に浮かんだ考えはまずけっして信頼しないのであるが、それでもなお、人から受ける反論についての経験からすると、そこからはどんな利益も期待できない。というのは、わたしはすでに何度も、友人とみなしてきた人びとの判断も、わたしと関係ないと思えた人びとの判断も、調べてみたし、また友情のため友人たちには見えなかったことを、悪意と嫉妬をもってあばき出そうと懸命になっていると知れている人びとの判断さえも調べたが、ほとんどすべての場合、わたしの主題からひどくかけ離れたものは別として、人びとの反論は、わたしが予見していたことだったからだ。したがって、わたしの意見の批判者として、わたし自身よりも厳格で公正だと思われる人には、まず一度も出会わなかったわけである。それにわたしは、学校で行われている討論というやり方で、それまで知らなかった真理を何か一つでも発見したというようなことも、見たことがない。というのは、だれもが相手を打ち負かそうと懸命になっている間は、双方の論拠を考察するよりも、真実らしさを強調することに努力しているからである。長年すぐれた弁護士であった人が、そのために必ずしも、あとで良き裁判官になるわけではない。

17 名前:ナナシンクロニシティ 2006/12/20 01:00
わたしの思想を伝えることで、ほかの人びとが受けるだろう利益についていえば、これもまたたいしたものではありえない。なぜかというと、わたしはそれらの思想をまだそんなに深く進めてはいないので、実地に応用するまえに、なおたくさんのことを付け加える必要があるからだ。そしてもしそれをできる者がいるとすれば、それはほかならぬこのわたしであるはずだ、と自惚れることなく言うことができると思う。それはこの世に、自分とは比べものにならないほどすぐれた精神の持ち主がそう大勢いるはずがないということではなく、ほかの人から学ぶ場合には、自分自身で発見する場合ほどはっきりものを捉えることができず、またそれを自分のものとすることができないからである。これは、こうした問題においてはきわめて真実であって、わたしは自分の見解のいくつかを、ひじょうにすぐれた精神の持ち主に説明したことが幾度もあるが、かれらはわたしが話している間はきわめて判明に理解したように見えたにもかくぁらず、それをかれらがもう一度述べる段になると、ほとんどいつも、もはやわたしの意見だと認めることができないほど変えてしまっていることに気がついたのである。なおこの機会に後世の人たちに、わたし自身が公表したものでなければ、わたしの意見だとほかの人が言っても、けっして信じないようにお願いしておきたい。そして書いたものが伝わっていない、あの古代の哲学者たちすべてに、もろもろの常軌を逸した言動があったとされているが、わたしは少しも驚かないし、まただからといってかれらの思想がひどく非理性的だったとは判断しない。この哲学者たちもその時代のもっともすぐれた精神の持ち主だったことから見て、ただかれらの思想が正しく伝えられてこなかったのだと判断するだけである。

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