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プラトン 『饗宴』
1 名前:つきピエンテオス 2009/06/24 23:04
最も高度な文明を築いていたと言われるギリシア文明では(ギリシア人が美しかったからか知らないが)
プラトニックな愛は高尚なもので、プラトニックな同性愛は最も高尚なものとされていた
それを今や退廃した世に知らしめたい 敷衍させたい


2 名前:つきピエンテオス 2009/06/23 23:02
古代ギリシアの哲学の祖:ソクラテス
仏教の開祖:ゴータマ・シッダールタ
キリスト教のメシア:イエス・キリスト
彼らには偉大な共通点がある。
それは彼らは何も書き遺してはいないこと。
それが祖たるもので、自身、不立文字を成就されている。

聖書、ヴェーダ、仏典、日本には『古事記』がある。『古事記』の優れた點は
.*. 伝承に基づいて作成されたもので作者がいないこと (より普遍的自然)
.*. 言語が機械的単純な美しさでない詩的官能であること (L'elan vital)
.*. 神をトートロジーでは讃えていないこと ({○○は○○である}といった論理形態では{色不異空}である事までしか表現され得ない)

.*. 神は詩と音楽で表現される
.*. 精神はエロスで躍動される


プラトンはソクラテスの弟子でその教えを享けた大哲学者である。『饗宴』には古代ギリシアの哲人たちによる理想的青年×少年像[又はエロス]についての議論が描かれる。読めばアリストテレスの四代元素[火・水・風・土]が6つの素粒子と相いれないから間違いであるというのが単なる捉えるものの違いであることがわかるだろう。むしろ一律に終わらせる物理学のほうに無理解と誤謬がある。とらえる世界が違えばとらえられる階層も違う。同じ言語も定説が違えば働きが違う。言葉は一人歩きする。それを避けるためにもプラトン編纂の『饗宴』もプラトンのnousでとらえなければ。それが智者だろう。般若心経も物理が云い現わされているというよりは精神論の要素が強い(「是故空中無色」以下)。生命たるもの、精神がいずれ体現されるの。どうせ生きるなら理想的な姿を求めるほうがいいだろう。
古代ギリシアはもっとも優れた芸術を産み出した文明だと言われる。そのことについて村上春樹は奴隷制に根據を求める考えに共感しているが(『風の歌を聴け』の冒頭)、「末法」の觀點から古代を眺めると、芸術に没頭しやすい制度がそうさせた以上に、頽廃していない風土がそうさせていたように思える。(台風が去ったあとのような大気、精神が純粋に白く躍動する風土は、原始性や高位(メタ)のレベルが潤滑しやすい)。『源氏物語』は世界で最も優れた文学のうちの一つだが、平安時代より遡り弥生以前にもなると、日本の民は更に優れて健康的な姿で生きていたろう。僕はそう思う。J.J.ルソーの『社会契約論』の理想が日本の天皇制にあったのだと戦後において評価されるように、きっとソクラテスも弥生の民を見れば.....なんと言ったことかわからない。 以下 岩波文庫 久保勉訳による『饗宴』の抜粋


3 名前:名前欄空白 2009/06/23 23:02
そこで第一番に、今もいった通り、ファイドロスがおよそこんな風に話を始めた。『エロスは偉大な神である、人間の間においても、神々の間においても、驚異すべき者とされている。それには幾多の理由があるが、なかんずくその発生(ゲネシス)の故に。けだし神々のうちもっとも古い者に属することは誉れであるからである(と彼はつけ加えた)。その証拠には、両親というものがエロスには無い、散文家にも詩人にもそれを挙げている者は一人も無い。のみならずヘシオドスはいう。太初にまずカオス成り出で
    「さて次に成れるは
  永えにゆるぎなき万物の座なる、広胸のガイヤと
  エロスと。
故に彼の説によれば、カオスに次いでこの両者が、すなわちガイヤとエロスとが生じたのである。しかるにパルメニデスはその創造女神(ゲネシス)についてこういっている。
  「そはエロスをばあらゆる神々のうち最初に思い創りき。」
ヘシオドスと同じことをアクシラオスもまたいっている。かくのごとく多くの方面から、エロスが最古の神々のうちにあるということが一致して認められているのである。


4 名前:名前欄空白 2009/06/23 23:18
『他面、もっとも古いこの神は、またわれわれにとって最大福祉の源泉でもある。実際私は、早くも少年に当って立派な愛者(エラステース)を持つこと、また愛者にとっては愛する少年(パイディカ)を持つこと以上に大なる好事が在るとは主張し得ぬほどである。というのは、いやしくも美しく生きんと欲するすべての人にとって、その全生涯の指針となるべきもの、それは愛(エロス)ほどあんなに見事にその魂に植えつけることは、血縁にも、栄誉にも、富貴にもその他の何ものにもできないからである。ところがこの場合私の意味するものはいったい何であるか。それは恥ずべきことに対しては羞恥であり、称揚すべきものに対しては名誉慾である。なぜなら、これらを欠けば、都市も、個人も、偉大な、秀美な事業を成就することはできぬからである。したがって私は主張する。恋する男は、恥ずべき行いをするところとか、または誰かから侮辱を受けながら、怯懦の故にこれに反撥せぬこととかが暴露したとき、父親に見られるにしても、友人もしくは他の誰かに見られるにしても、愛する少年に見られたほどそれほどたまらなくは感じないだろう、と。またちょうど同じことが愛人においても見受けられる。すなわち何か恥ずべき事をしているところを見つけられるとき、彼が特に甚だしく恥じるのは愛者に対してである。今かりに何等かの方途によってただ愛者とその愛する少年とのみから成る都市または軍隊が出現したとする、そのとき彼があらゆる陋劣から遠ざかりかつ互いに名誉を競うこと以上に自分の都市を立派に統治する途はあり得ないであろう。またもしこのような人達が相携えて戦ったとしたら、たといその数はいかに少なくとも、必勝を期し得よう、――全世界を敵としても、と私はいいたい。実際愛者なる男にとっては、その持場を離れたり、または武器を投げ出したりするところを愛する少年に見られることは、疑いもなく他の何人に見られるよりも遙かに堪え難いことであろう。また彼はそれよりもむしろ幾度でも死ぬことを願うであろう。ましては愛する少年を見捨てて逃れたり、あるいはその危地に陥るのを見てこれを救い出そうともしなかったりするほど――エロス自らの与える霊感によって勇気づけられ、その結果生来の最勇者にも比肩し得るようにならぬほど、それほどの臆病者は、一人も無いのである。それで疑いもなく、ホメロスが、神はある半神(ヘーロース)たちに「勇気を吹き込んだ」と語っているところのもの、それこそエロスが彼に賜物として愛者達に与えるものなのである。

5 名前:名前欄空白 2009/06/27 01:43
『のみならず、対手のために死のうとまで決心する者はただ愛する者だけである。しかも単に男のみならず、女をも含めて。この説に対してはペリヤスの娘のアルケスティスもまたヘラス人の前に充分な証拠を提供する。その夫にはまだ父親も母親もあったのに、独り彼女だけが彼のために死のうと決心したのである。愛(エロス)の故に夫に対する彼女の愛着ははるかに彼らを凌駕していた、その結果両親は息子にとってあかの他人に過ぎず、単に名前の上の同族であることが証明されるに至ったのである。またこういう行為を為遂げたので、彼女は人間のみならず神々にすらもきわめて称揚すべき行為をしたものと思われた。それだからこそ、多くの美しい事を為遂げた者が数多い中で、その霊魂がふたたび冥府(ハデス)から帰されるというあの栄誉ある賜物を神々から授けられた者はきわめて少数に過ぎないのに、彼女の霊魂をば、神々もその行為を驚嘆するあまりに、帰してくれたのであった。こんな風に神々もまた愛のためにする献身と勇猛心とをきわめて尊重する。これに反してオイアグロスの子オルフェウスをば、神々はその目的を果さずに冥府から引還された。それは彼が争われぬ弾琴者流の柔弱者として見られ、またアルケスティスのように愛のために死ぬ勇猛心無く、ただ生きながら冥府に侵入しようとして狡知を弄したからである。それだからこそ神々もまた当然の罰を課して、彼を婦女の手にかかって死なしめたが、それとは反対に、テティスの息子のアキレウスには誉れを与えてエリュシオンに送ったのだ。というのは、アキレウスは、もしヘクトルを殺せば自分も死なねばならぬが、もし殺さなければ、故郷へ帰り、長寿を保って一生を終ることができるということを母から聴いてよく知っていたにもかかわらず、なお勇敢にもその愛者パトロクロスの救援に赴き、その復讐を果たした後には、単に彼のために死ぬばかりではなくて、さらに彼の後を追うて死ぬことをすら選んだからである。それだからこそ神々もまた非常に彼を嘆賞して、その愛者をそれほどに深く尊重したというので、これに抜群の栄誉を与えたのである。アイスキュロスが、アキレゥスはパトロクロスの愛者だったようにいっているのは無稽である、なぜなら、アキレゥスはパトロクロスのみならず、あらゆる勇士よりも美しかったし(中略)。とはいえもちろん神々は実際愛から出た徳(アレテー)をもっとも貴しとする、しかも彼らがさらにいっそう嘆美し、尊重しかつ恩恵を与えるのは、愛者がその愛する少年に対する時よりも、むしろ愛される者が愛する者に対して愛情を示すときである。けだし愛する者はその愛する少年よりもいっそう神々しい、彼は神に満ちて(エンテオス)いるからである。それ故にこそ神々もまたアキレゥスに、アルケスティスに対して与えた以上の栄誉を授けて、彼をエリュシオンへ送ったのである。

6 名前:つきピエンテオス 2009/06/27 02:20
(中断)黄色い光を反映する物体は紫色である。反映していないから見えないが。紫色の花の本体は黄色の花になる。
生き物の実体は反転した色の生き物になるが、それが美しいかどうかまでは解らない。雀は保護色で地味な容姿をしているがケツァールより実体は彩り深い姿かもしれないしケツァールは雀より実は優しいのかもしれない。外にたいする性格が容姿にあらわれるが内の性格まではわからない。とはいえ単独で行動する動物は彩色が派手で輝いてる傾向があるがそれは群れる動物とは違い遠くの異性を引き寄せる必要がありまた別の種族にたいする威嚇性が強くなるからだろう。群れて行動する動物は地味な姿で可愛らしいしぐさをしている。
生き物は、悠久の時を経てそういう形状になっている。色不異空、魂がそう希求すればそうなるという自然界の仕組みがあるのなら、輝くためには利他の精神が必要か。かわいくなるためには人をかわいくさせる力が。崇拝されるためには人を幸せにさせる生命力の躍動が。煩悩の滅されているうちに。魂の純粋な希求のうちに。
それが宗教と言えるものなら、どこの宗教も酒を用いた宴会や性行為を禁じている。田縣神社には大きな男根のきれいな御神体が、大縣神社には女性器をかたどった体をうずめたくなる御神体がある。それは生命の偉大さを称揚してのこと。おおらかに。
人は鳥になりたいと希求すれば三世代で肩の骨格に兆候が現れてくるみたいだが(中学の理科のせんせいがゆってた)魂から希求しない限りそれもないだろう。空を飛べなければ死ぬ!という絶対条件でない限り。
可愛がられたいと思っていても、持てる生命力が自己に集約して終わっていては可愛がられることはない。その空(エランヴィタール)がその性向のとおりに肉体を形成して容貌に現れてこない限り。哲学は真理を究明する物理学ではなく真理をかたどった精神である。宗教は現象そのものに介在する。性行為を断ったうえで自力が足りなければ神の力、仏の力(神仏のエランヴィタール)が成就の助けに加わるだろう。特に理想の高い人はガチで仏道や神の道に入らない限り、理想が成就することはない。


7 名前:つきピエンテオス 2009/09/04 23:53
音楽は音楽として聴けない者にとってはただの音響でしかない。
備わっていない者にとっては霊性も存在し無い。
生き物は努力相応にしかならない。才能は先祖代々より宿りしもの。
先祖がそう希求していたゆえに備わっている。
どうでも良いものとすれば躍動しないままに消え失せる。


8 名前:つきピエンテオス 2009/09/04 23:54
エランヴィタール…ΘдΘ。特にエロスの力は偉大だ。性が聖となりオージャスになっている状態ではお墓も供養できよう。
体が肩が重くなる傾向にある人は鬱になる前に無闇な性行為をやめて愛のカーマを高揚させよう。


9 名前:つきピエンテオス 2009/09/05 00:04
犬山の成田山では仏説聖不動経が一番深く感応する。
それはたとえばONKYOのスピーカーも、ジャズ喫茶でずっと鳴らし込まれたものは
JBLよりもジャズが甘く芳しく朗々と鳴るという現象に似ている。
そこにある霊性が、仏説聖不動経の形質のとおりに彩られてゆく。
振動板がどんどんジャズの粗密波の音圧に崩れてゆくように。
またそこに砂糖がなければ砂糖の甘さを感じることもない。
そして甘いという味覚がなければ甘さを感じないように、感応する心が伴わなければ感応しない。
お不動さんもそのお経を好み、唱えられる事を好み、唱える者を好む。それにて相互作用が生じる。
その場の霊性のインテンシティが増すほど、そこにある相応のものに深く感応するようになる。


10 名前:つきピエンテオス 2009/10/12 22:26
本来宗教とは依存でも希望的観測でもない
それでは教えにもならず成長にも繋がらないだろう
現象を最も短く要約し それをマクロに須いるのが宗教である
『鬼は外 福は内』等と すべてひっくるめていいようにしてる
その禍福というものすべてをミクロに検証し分別しようものなら
大学の図書館を覆い尽くしても足りない事態になる


11 名前:名前欄空白 2009/10/14 23:23
ファイドロスの後でほかに二三人の演説があったそうだが、彼はそれらのことはあまりよく記憶していなかった。で、それらを抜かして、パゥサニヤスの演説の話をした。あの男はこんな風に語ったそうだ。『ファイドロス、こんなに無差別にエロスを讃美せねばならぬという風に主題が提出されたのは好ましくないように思われる。というのは、もし実際唯一のエロスしか無いのであったら、それもよいだろう。ところが、それは唯一ではないのだ。すでに唯一ではないとすれば、いかなる種類のものを讃美すべきかをあらかじめきめて置く方がいっそう正当であろう。それで私はこの点を提出すべく試みようと思う。すなわちまず第一に、どんなエロスを讃美すべきかを明らかにし、その次にその神にふさわりく彼を讃美して見たい。エロスを離れてアフロディテの無いことは、われわれ万人の知っているところである。もしアフロディテがただ一種であったとすれば、エロスもまた一種しか無いはずである。ところが実はあの女神には二種あるのだから、必然にまた二種のエロスがなければならぬ。ところでどうしてこの女神に二種は無いといい得ようか。一方は、思うに、年長で、母の無い、ウラノスUranus神(天)の娘で、われわれはこれを天の娘(ウラニヤ)とも呼んでいる。もう一種の年少の方は、ゼゥスとディオネとの間の娘で、われわれはこれを万人向きのもの(パンデモス)と名づけている。したがって必然に後者の協力者なるエロスを万民向きのものと呼び、もう一つの方を天上のもの(ウラニオス)と呼ばざるを得ぬのである。(中略)

12 名前:名前欄空白 2009/10/18 19:52
『さて万人向きのアフロディテに属するエロスは真に万人向きのものであり、偶然のまにまに発動する。しかもこの種の愛に凡俗者流は惹きつけられるのである。ところがこの種の人の愛はまず第一に、少年に対すると同時に、婦人にも向けられる、次には恋に落ちた場合に、彼らは魂より以上に肉体を愛し、最後には、でき得るかぎり愚昧なる者を愛する、それはただ目的の達成をのみ眼中に置いて、その仕方が立派かどうかを意に介しないからである。だからこそこの種の人は、何事でも、それが善であろうと、その反対であろうと無差別に、ただ偶然のまにまに行うようになるのである。それはこのエロスが、もう一人の女神よりも遙かに年少で、かつすでにその生れの上からも女性と男性とにあずかる女神から出ているからである。しかるに他のエロスは天の娘(ウラニヤ)から出た者であるが、この女神は第一には、女性にあずからず、ただ男性にのみにあずかり(これすなわち少年に対する愛である)、次には年長で、放縦に流れることがない。それだからこそこのエロスに鼓舞された者は男性に向かうのであるが、それは彼らが生来強き者と理性に富める者とを愛好するからである。さらに少年愛そのものにおいてもまた人は純粋にこのエロスに動かされている者を識別することが出来る。事実これらの人は少年に智慧がつき始めるまではこれを愛することをしない。ところがそれはようやく髭が生え出す頃をいうのである。思うにこの年頃から愛し始めた人々は、全生涯を通じてその愛する者から離れ去ることなく、いつまでもこれと生活を共にする覚語こそあれ、子供の時の無思慮に乗じて手に入れた愛人を欺いて、嘲笑をもってこれを捨てて他に走るようなことはしないに違いない。(以下略

13 名前:つきピエンテオス 2010/01/03 18:20
今年は「自分に負けない」ことを目標にしよう。
愛は高次なほど気持ちがいいからといって、
低次な僕は自分にそれに負けてはだめなのだ。
すごい強い愛が来ても、それを身に宿す。
肉体や精神を進化・固成さすものは魂(カーマとかエロス)の働き・力。
大きな愛を受け止めきれずしびれていてはまだ弱い。
初めから何事もうまくはいかない。何度も繰り返し。

14 名前:つきピエンテオス 2010/06/14 22:17
科学が完全であるといずれ言える事になる可能性があるという事は
科学で完全な音楽を創造することができる可能性があるという事である
科学で生命を創造できるというのなら永遠の若い姿と感受性を与えてほしい。
そして、0から創造しろとは言わないので僕の子供を誕生させてほしい。「僕」の子供を。
今の姿のままで、僕はその子と永遠に抱き合っていたい。

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