批評について


 批評は、批評それ自体が芸術化して拮抗しない限りその作品より劣ったものなのに、いつも作品より偉そうだ。音楽にせよ骨董にせよ自分の耳で聴き自分の手で触れる側の人間は、音楽や骨董を批評する側より立場が弱い。中途半端なことしか感じられない浅はかな輩ほど批評する側に回ろうとする。自分が測られることを恐れるものほど一面的な視野を感じさせる批判的なスタンスで。
 しかし建築も、その概要はあったほうが楽しいが、批評に観念を奪われていてはその空間をじっくりと感じられないものだ。純粋な観念で空間を感じた者があとからその批評を読むと、建造物より深くない思索が害悪となって次元を引き戻される感覚を抱く。腰の軽さに褪める。でもやはり中途半端なことしか感じられない浅はかな輩は批評する側に回る。創作する者も、あんな本格ぶったものが称賛されるのならと、となにやら本格的なものを纏う。あるいはあんな俗なものが付加価値になるのなら、と経済に負ける。褪める。支えてきた愛好家は、いなくなるか回顧録を読み始める。芸術化していない批評が栄えると、その文化は滅ぶ。批評は、それ自体が芸術化していない限りは高談かただのビジネスである。