〔デジカメご朱印帳〕


QV-3500EXの撮影画像



恵林寺。ここには武田信玄が埋葬されている。
恵林寺
臨済宗妙心寺派
ここには武田信玄が埋葬されている
山梨の塩山駅からタクシーで
たくさん周辺にあるから帰りは歩きで
右往左往しているうちに
心頭滅却すれば火自ずから涼し
この言葉が生まれたすごいところ
だからあなたはネットスケープしているうちに
誰かの攻撃的な散文詩に接触してしまい
そいつは詩でもないそれをポエジーだとか宣まっていても
その毒に耐えうるようになりなさい


武田信玄公訓言
武田信玄公訓言
凡そ軍勝五分を以て上と為し七分を中と為し十分を以て下と為す
その故は五分は励を生し七分は怠を生し十分は驕をするが故
たとえ戦に十分の勝を得るとも驕を生すれば次には必ず敗るゝものなり
すべて戦に限らず世の中の事此の心がけ肝要奈利

夢窓国師の愛する庭とは?
オーディオファイルのオーディオみたい。
夢窓国師の造られた庭園
この庭園も荒れてる心が落ち着いた。夢窓国師のお庭といえば瑞泉寺もすばらしかったです。うぐいすが気持ちよく鳴き、花とか木とか、岩にある苔とか、抽象的ながらすべてが調和がとれており、天女洞は仙人でも住んでいるかのよう。修羅とは反対の因果だ。瑞泉寺においては、行けばわかる。行かなければわからない。そうとしか言えない。説明するに解釈の不毛さを悟了し、ことばを出すこと自体が憚られる。

 夢窓国師…臨済宗の僧侶。庭園に禅の思想をもちこみ質の高い庭空間を創出した。
その著「夢中問答」は自然観の書としても名高い。


本を読む…知識の悦に入る
本を読まない…アクチュアリティの悦に入る
仏を信じる…崇敬における物々しい所作を、いかにも物々しく態度する
仏を信じない…迷信から自由であると誇る
どの道を進もうとも到達点は同じだけど、
結句、どこで慢心を起こしているかが実力である
指向性のある意識は読もうとしなくても沸いてくる。
僕は人の思考のわかるほうだけどその殆どがもう飽きてる類いの思念。僕は否定されるとこちらのが上なんだぞ、どうにかして下さいその安い哲学、と反動的に人差し指を下に向けるけど、熱が冷めればその點ほったらかしで、また別の人の驕に入った衒学等を見るのである。成長して勝ち誇り、退歩して反省する。さらに成長して勝ち誇り、退歩して反省する。成長過程が長くなればなるほど驕の時間も短くなる。たくさんの御霊が集まるところ、さまざまな進歩の歩調がある。ほとけさまは慈悲を与えて待つのみ。


ちょうど祭りをやっていたのです。この日。
僕が惱むことも人は惱まない。人は惱まないからその點では僕は優れているけれど、人が惱むことに僕は惱まない。どんな過渡期であっても、各々の真理が身についてくる。努力相応のものになるものである。チャクラの哲学では性のエネルギーは聖なるエネルギーになるという。脊髄上昇して橙色のチャクラかなんかのエネルギーになるらしい。やはり忍耐のできる人がすごいエネルギーを得るのだろうな。靈能を得たとか自分は悟ったなどと志気衝天すればそれまでの力にしかならないし滅ぼされる。


二色の梅の花が咲いていた放光寺
√瞬間藝術はうんぬん。音樂を聴くと、一切合財忘れている音樂の旋律のくせに、その当時の詩情を瞬間におぼいだすのが不思議である。なぜ瞬間に通じだす世界?インターネットでは特に人に物事を説明するさい、唯腦な論理を使ってしまうことがまだある。そういう論をかけるうちはまだまだなので、どうやって治したらいいかと思うけどアドリブを治すには結構な分量のインパルスが必要。もっとも大きなインパルスはこの場合は恥ずかしい気持ちを塗るべきだろうか。あとで恥じ入ることは、矯正を促す仕組みにあると思う。恥の文化をあさはかに批判する連中も多いけど、それもまた防衛規制の心理が働いていて、なぜその心理が存在するのかを正直に考えないといけない。自分の生理反射を洗練さすためには、高校生ぐらいの子と話すのがよいだろうか。まだ純粋なので、複雑な表情をさせてしまったらそこで恥じ入る。人の喜ばない美しくない論理性を、無くしてゆけるかな。

この字がめちゃくちゃ上手くて、見とれてた。写真も三次元的。
これ6年経った今でも覚えてる。すごい見とれてた。




顛倒夢想をニュートラルに戻す子供の感性
驕に入るときもそうだけど「やってやってる」的行為になるとき、それはその人の評価が相応に得られていないことよる形成もある。人が成果主義になるときには、そうすれば自分の成果が満たされるという無意識の構造がある。靈性は無意識にまで敷衍しているので、神様仏様に心満たしてもらうといい。自分の努力が神や仏の御心にかなうものなら、靈性は満たされる。でも神仏に言っても満たされない場合は、「やってやってる」的な行動で「やらされてる」的な気分を生み出し徳が相殺されてるか、動機が不純でそれがそこの神仏の御心にかなってなかったと思って諦めよう。そういうのは功利的でない。
神仏にたいする感謝の念が豐かな神社仏閣の場合、その感謝の念が満たされてない器を満たすのに使われて好循環。自分が愚痴を言わずに済むのは人の気づきの功徳。生かされていることに気づけるという人々の功徳によるところ。
これ触ると、ふわふわしてた。
怒りは無知 泣きは修行 笑いは悟り

慈悲のすばらしさは不淨靈はもちろん、魔縁の天狗すら癒せるところかな。天狗を癒せば自分が受胎した天狗も昇華する。やはりあの能力の求め方では、恨み深い人が恨み深い論理に迎合するかのように、その縁にある人が自己中心的な崇敬しかしないのでいつまでも満たされないことだろう。衒学する衝動が尽きないのも、天狗が天狗たる所以に同じである。衒学を讃えるほど人は馬鹿ではない。でもなぜあの能力の求め方をするに至ったのかを推察すれば、慈悲が沸いてこないこともない。それにあいつは天狗といっても実際力があるゆえ天狗なのだから、その點は褒めてもいいかな。それが原因で驕に入ることは多分ない。ふつう人が悦に入るときは、必ず不足した愛情や吹き溜まったルサンチマンが背景にあるものだから、底を満たしてあげれば異様な名誉欲も癒えてきて、生まれたるままの姿を取り戻すかもしれない。といっても天狗は大群なので、その全部が満たされないと。一匹が仲間から足を洗うにも、真面目君を馬鹿にしてきたその想いが自分に因果してくるとなると耐え切れまいから。