この映画は歴史的な作品で映像のスペクタクルも通念をかけ離れたものがあるが、そこにコントラストするエロスへのこだわりを感じられたら本物である。第一部はアダムとイブの堕落からノアの箱舟まで。そこに登場するアダムとイブは神秘的とも思えるぐらいに原始的な動作をしている。蛇に化したルシフェル(Lucifer)に唆され善悪を知る命の木の実を食し、彼らは知恵をつけるがいちじくの葉で下半身を隠すようになった。通常の植物は果実が完成してから花が咲く。しかしいちじくは果実が未熟なうちに花が咲く。だからいちじくらしい。
アダムとイブに子供が生まれる。カインとアベルである。アベルは信仰心が厚いが堕落を受け継ぐカインには信仰が宿っておらずアベルだけ神に捧げものを受け取ってもらうのに癇癪起こして殺害する。カインは罪の意識でどこかに消えていく。そこで子孫を繁栄させるがサタンの血筋しかなくひどいもんで神に呆れられて滅ぼされる。カインもアベルもいなくなったので第三の息子にセツを生む。その十代目にノアがくる。(以下略
... ..
第二部は傑作だ。アブラハムの息子、イシュマエルが美しい。人間は信仰心の薄いものと厚いものに分けられる。カイン的なイシュマエルは無邪気に悪びれる。やがて映画の中ではアベル側の立場にある息子、サラとの間に異母兄弟イサクが生まれるとイシュマエルはその母バガルと共に国を追放されることになる。砂漠を死に物狂いで彷徨い倒れたそのとき、イシュマエルの衣料がはだける。歩けないというにはいささか肉付きが良すぎると思われる太もも、そのシーンになにか色気めいたものが垣間見える。
ソドムの街の映像はすごい。聖書には詳しく書かれていないが性と倫理の腐敗がリアルに描写されている。不倫、獣姦、売春婦や同性愛者の群れ、サタンとの契約と神へのあざけり、暴虐と欺瞞に満ちあふれ常に背景にはあえぎや喧騒があふれる。神はこれは失敗作だからい〜らないとテポドンどか〜んと爆破することにしていた。アブラハム達に信仰心のない代表格のその世界を崩壊前に見せたあと、「ここを離れて山に逃れるまで決して振り返ってはならない。低地にて立ち止まってはならない。そうしなければあなたは滅びます」と忠告する。これは千と千尋の神隠しの千尋が最後のシーンにも似ている。なんで振り返ったらいけないのかはわからないが、ソドムの街の爆破の音に振り返ったロトの妻は塩の柱になった。玉手箱をあけた浦島太郎は時間に追いついてしまった。あの世とこの世の時間の隔たりを埋めてしまうからだろうか。
次はラストシーン、イサクの献呈。サラは霊的感性が高いのでイサクの運命を知っていた。最後の別れには覚悟が見出される。(サラは神にイサクを宿された後、バガルを追放してしまったからだ。信仰心の厚いサラ唯一の過失だった。)。アブラハムは少年イサクを神に返すため二人でモリヤの山にいく。アブラハムは神の要求にしてはあまりに深刻だといたく嘆くがイサクの体を縛り薪の上に抱き上げる。意を決して短刀を取り、イサクの体を裂こうとする。極度の状況にあるのに、そこに寝かせられた少年の美しい素足に惚れ惚れとしてしまうのは製作者の意図だろうか。芸術は同調によって膨らむ。反対に恍惚は一人歩きしても地に足がついておらず、すぐに消えるものだ。イサクも「神の御言葉は絶対なの?」と覚悟を決めていたがアブラハムは神に忠誠心を認められ、結局イサクは返してもらえる。抱き寄せられるイサクの肩が柔らかい。この子のお腹を短刀で切り裂いてくれてたほうがもっと美しかった…
この映画には異様な、鬼気にたぎる雰囲気がある。ラストまで言ってしまったがそんなことはどうでもいいだろう。ここにあるエロスは普遍的なものだから、みな僕と同じ興奮を覚えるに違いないことに、僕は我が意を得ている。 |