ショタフィロソフィー [U]

コブダイはメスからオスへ性転換する





自分は犬とかすずめのような男の子が好き。だが致命的なことにそのような男の子は成人を迎えると人間になってしまうようだ。永久に可愛さ余る男の子なのでなかった、、。結婚するために生きている、と考える女性は多くいるが産まれた子供はすべて20年後に成人になる。世の中不思議に満ちている。

自分は犬とか猫とかすずめのような男の子が好きだが、探してもそういう存在はたしかにどこにもいなかった。なんでその形象が俺の脳内に作られてきたのか・・・。ジャニーズとか子役の男の子とか様々なショタジャンルがあるが、みなきれいな美顔をしていて魅かれない。男だからかもしれない…。または人間だから?漁り尽くすより、自分が自分でさえあればおのずから導かれる気がしてきた。そしてそのような経験をした。それは~社仏閣の御神仏の審り事か、似通ったヌースで引き寄せあったのかはわからないが、ある電車の高校生の群と恋愛関係になった。自分の心が穢れればその子も穢れ、その原理を縁起というのかもしれない。そこに元からいたから心に形象が形作られていたのかもしれない。その子らの卒業後、この世のものとは思えない悲しみに沈み、2011年3月に震災が起きた。その後、ダイヤも変更された。さようならだった。

自分は誰ともふれあったことがない。2chで交歓したある動物ッ仔にももう会えなくなった。この孤独な人生によってある能力が発芽する。たとえば霊感。あたまよわそうと思われるだろうが、カミングアウトしてもコミュニケーションうまく出来ないからいつしかエスパーでわかるみたいに人の心理が読み取れるようになった。でも反対に他人は俺の心理がまったくといっていいほど読み取れない。その結果、ネット上のやり取りや仕事で説明不足に陥りやすい。
世の中霊感持ちを自称する人がたまにいるけど、霊感の真贋は目隠しで区別つけられるかどうか。神社仏閣の違いなら二者択一でよければ100%言い当てられないといけない。また自分の先生の場合は禪病やクンダリーニ症候群が治せるから霊性がわかっているか否かは「臨床的に扱えるか否か」という。人の苦しみが治せないのに霊能力者を自称したらいけない。通常、苦労の賜物である。このような性的指向性の場合、孤 独 だ か ら 霊感が強くなる。
余談:富士と云えば浅間大社の神域らしいが身延線に乗って富士山にどんどん近づくと、近づくにつれ輝きめくものが浸透してきた。神社の神殿、特に拝殿では色に例えるなら白い神気あふれるが(たぶん全部の色が太陽光のように満遍なく複合している)、山からは初めてで、それが不思議だった。たぶんリュックに入ってた浅間大社の神札に反応した、または神札が富士山に戻ってきたよーと反応した。山にはなにが宿るものかは。あの山頂の白。純粋な少年のこころはあでやかな色と香りをはなつ。唯一普遍的な白に合うは豊かな色彩。ブリチラが見えたらうれしいという人が多かったが、富士山の白の淡さと同根かもしれない。一瞬しか見えないし、体操服など汚れやすいもので、その対比があるのかもしれない。雀にしてもバイオリンにしても美しいものは色不異空で美したらしめられた所縁がある。神様や大地によってつくられたんじゃないかと。少年の声は高くて無性独特の甘やかさが伴ってる。ホールに響くとそのたおやかさ倍増。多くの人は失神してしまう。少年はとくに自分を見つめて噴火するのはいつぞ知れぬ。近づくと危ないですよ。そして13歳の頃は、ちんかすの匂いすら馨しいものになる。ネット上の書き込みで読んだけどある整体師曰く「不思議なことにイケメンとか美少年ほど匂いがいい」らしい。色不異空。色(姿)と空(霊性)は一致する。僕は視力を失っても一層明瞭に美少年を嗅ぎわけることが出来ると思う。また、感覚器官のすべてを失ったのちも、醜少年をば小君の様にかわいらしめるなどの努力を怠ることのないようにしたい。多分自分は死んだら荒~か荒御魂か怨霊になるが少年神さえそこにいれば和魂幸御魂。

桜のように咲いてるのはひとときだけで、次咲くのは来世...。

-源氏物語-
小君が可愛い。小君はらうたげであるが少しブサイクな日本男児のようだが、源氏に気に入られて眷属にされていた。源氏の趣味は僕と一致している。日本男子の一重の可愛い顔を可愛いと思えないようではなんのために日本に産まれてきたのか。源氏物語は憑いてる。紫式部が天才だかだろうか。小君を追い求めて源氏物語を読んでいる折には、ボケかけているおばあさんが「最近だいくん(俺)のところに可愛い子が出入りしてないか」とか言っていた。小君のひとつひとつの行動をみていると、現代の少年愛者が慈しむサッカー少年の光景すらもゆうに通り越えてしまいかねてはいない。
源氏物語は発表当時はほとんど同人誌みたいなもので、鎌倉後期になって仏教経典以上の権威を博する。自然淘汰されなかったどころか扱いが良くなっている。源氏物語とかあずまんが大王のような精神性はなかなか異国民には理解されない。野球も教会も小籠包も、たしかに本場のほうがおいしいが、そういうのは再現できる。向こうの人に日本のもののあはれ、静けさ、まごころ、曖昧さ、武士道、神ながら言挙げせず、神社の存在価値がわかるか再現できるかといったらほとんどの人に無理だろうと思う。現代日本でも多くの人は無理だと思う。日本アニメは外国でも流行るけど、外人が萌えを表現するとどうしても…。その絵を見ると、ぜんぜんわかってないと思う。でもきゃりーぱみゅぱみゅがフランスとかで売れてて「かわいい」が理解されてるところをみると、いつか外人にも理解されるものかもしれないが。


-マンガ-
「赤ちゃんと僕」は高校のころアニメ化していて、管理教育の監視の中に生きていた自分としては、信じられない世界で、ひとときの癒しとしてみていた。友達も見ていた。もちろんその友達はショタとかやおいではない。その世界がよかったのだ。僕は高校当時も今も「やおい」は求めていない。赤ちゃんと僕も絵柄としては少女漫画の領域。「赤ちゃんと僕」はプラトニズムで読めるからいい作品だと思う。作者の羅川真里茂さんも、ファンからショタコンを疑われた手紙を受けるけど実際にはそういう嗜好はないですとのこと。「いつでもお天気気分」にも結構かっこかわいい男の子が登場するけどやはりキャラの一つの類型でもののあはれで描いていると思う。なぜかそそらないのです。(小学中学で性的に目覚めていなかった人は特にそんなに即物的にはならないもので、なんでもかんでも性に結び付けないのが自然。ルソーも同胞愛とか友愛というものはその時期にしか備わらない神の賜物という。あまりに早熟では獣性が育つ。修業などで性愛を禁忌にするのはなにを得るため。「適度な射精は健康に良い」などというのは希望的観測。適度で終わるものか。前立腺にとどまった細菌類は夢精で流れる。実際は覚えるのが早いほど短絡と白痴化に向かうので学歴とも相関関係があることと思う。事実東大1年生の男の子にはオナニーすら知らない子が多いという。やっぱり中高生は部活動で疲れさせて家ではバタンキューが理想。携帯のある現代の子は夜中の1時まで起きてる。発育不良を起せば赤ちゃんと僕とか源氏物語の時代の健全な世界がわからなくなってしまう)。
赤ちゃんと僕はマンガという形式のみではなくアニメでもほんとうによい作品なのが貴重。エンディングの曲とかすごくいいし。ほんとアニメ化してよかった作品は少ないと思う。同じく日常のあはれを描いた「ちびまるこちゃん」の場合はアニメではてんでおもしろくなく、作品にたいする誤解にもつながってる。さくらももこは「神のちから」とか「永沢君」とか「コジコジ」が名作すぎるけど、吉田戦車と同様、あの電波のアニメ化は困難。ねこぢるのアニメも見たこともあるけど、・・・うんぬん。マンガには文学的な要素があるんだろうな。恣意的な想像が広がるというか。文学で登場する好みの子を絵柄や実写にすると・・・でしょ。僕は守備範囲が狭いゆえ文学の中にしかイデアは温存されなかった。歴史的な彫刻でもあんまり好みにあうものがない。

あと、「あずきちゃん」はよかった。だいずのしゃべりとか性格とかかわいい。

ちなみにBLが好きな女性は「男と女の恋愛じゃ、なにか欠けている」という。・・・?






-ゲーム-
ファイヤーエムブレムには萌えた。戦って、死ぬ時の台詞に。




ファミコン 『キャプテン翼』


-馬鹿の壁、構造の壁を認識するパイデラスティア-
少年愛について述べると全宗教を統一する予定のメシア協会は教義が成り立たなくなってしまう。青年が少年を愛すなんてそんなことがありえるのかというファンダメンタルな思考基盤。神の掟に背いたルーシェルの仕業にされている。理解できない性愛を理解するということは、クラシックの理解できない人にクラシックを理解させるようなもの。・・・共同幻想の外にあるメンタルを理解しようとするニューロンの質は既に固まっている。同志を讃えるに混じり自分たちに都合のいい「すごーい」があふれる気味の悪さよ。まさにパイデラステースのピリアーを淘汰するアガペーの人。そういう人はヨハンセバスチャンバッハとかA.モーツアルトとかベートーベンの一部の有名楽曲ではなく、くるみ割りにんげょうとか白鳥の湖でもハイライトではなく全曲とか、ショスタコーヴィチとかグラズノフとか戦争と平和、プロコフィエフなら交響曲第2番以降、ドビュッシーでもペリアスとメリザンド、ハチャトリアンでも組曲以外、フルヴェンでも彼自身の交響曲、そのほかスクリャービン、ヴァインベルグ、ジョンアダムズ、ライヒ、セシルテイラー、ハービーハンコック、ロビーロバートソン、日本の民謡、武満徹、音楽のみでないプラトン、ダンテアルギエーリ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、小林秀雄、手塚治虫、プルースト、ヘーゲル、あるいは古事記、檸檬、密教的秘術の要素や科学と信仰科学の違いもちゃんと理解できて、かつそのうえでカルトの定義に抵触しない慈悲をもって言っているのだろうか?…プロコフィエフが電波だということがわかれば上出来だけど、そういうところまで求めたくなるのは、自分の宗教でしか通用しない絶対真理が神様仏様レベルではないことをわかってほしいからである。それら歴史上の人物のほうが霊格高いよ。

このまえ神棚のお神酒の筒の中から羽衣めいたものが出てきた。勇気をもってそれに触れるとさらさらと気持ち良かった。憎しみは離散するが愛は癒着を生み固成する。性のエネルギーは昇華すれば神仏の霊気のように輝くオーラになる。そこでマルチ商法。そこに取り込まれればチェルベロ逝きで。僕が教条主義に願うことは、どうか信者が布教に結び付かない音楽でありますように。



-少年神を保護する方法-



wikipediaの少年愛の挿絵は「夭折するポリュデゥキオン」というものが使われていたけどやはりギリシアの子は日本人からみても愛らしいなにかがあるんだろう。青年には興味ないけど、アンティノスも相当かっこよかったね。その他なにかないかと少年愛そそる彫刻を検索で簡単に漁ってみたけどこのポリュデゥキオン以上のものはなかった。体躯はもとより、顔がいい。抵抗が少ない。もう少し布を着せてもよかったけどそうすると余計にエロスになるのかもしれない。上野の国立西洋美術館には常設のところに「ほら貝の音を聴く少年」だったかそんな愛らしいロダンの彫刻があった。それは海で裸であるも、エロスではなかった。自然の美しさを感じ取ったレミニセンスを、あの感受性の美しい時期の子供に託したのだと思う。顔は最高にかわいいけど(貴重)、無邪気な感じでそそらない(だからそそらなくて結構なんだけど。
ポリュデゥキオンは他にも見つけたけど、この彫刻が一番美しかった。この彫刻は、画像のコントラストによって多少見え方が違っていて、ひとつの彫刻で何度か楽しめる。ここに貼ったのは僕が色調とかコントラストを緻密に調整したもの。日本のwikipediaの画像ではなんか怒ったような目付きをのぞかせる。神格らしい毅然とした姿で。でも別のところでみたやつは鼻が不細工に上がっていて口もとには力がなくだらしない印象、人間にまじまじと見られ過ぎていてそれに負けてそうな気配がある。もう見ないでください。いやですごめんなさい。誰か、誰か。
と、そう書いて寝ようとしたらポリュデゥキオンなのかなにか知らないがすごい冷たい震えた嘆き声が耳元から入ってきた。だめだ。あの声は怖かった。神格化された少年は不浄霊なのかもしれない。神をも恐れぬ貪欲者につきまとわれ過ぎているから。虐待。ポリュデゥキオンなどの少年神たちを護る眷属はまた美青年神で、美少年神たちはトラウマたる男の視線や本能に始終囲まれている。逃げようにも逃げればもっと嘆かわしい状況に堕ちる。これではノイローゼとなるも仕方ない。「神の彫刻を視姦すべからず」 そんな法律を定めても余計に誘発するのみ。少年たちにとってゼウスも信用ならない。ガニュメーデスを奪い去ってる存在だから。少年神たちはいろいろの母性なる神に護られないと安心できないことだろう。子供は親や学校に護られていなければならない。保身の足らない少年神たちがノイローゼに戦う姿をみてやりきれない。私は思った。世の中にはロリータという欲望をもつ人々がいる。ショタの方々の究極の無関心と引き換えに交渉してちょうどよい。相手のロリーフェティスムとこちらのショタフェティスムと中和させれば子育ても多少怒りが和らぐでしょ。なんという完全なる社会契約。






-作家の言葉-
高貴な人物は容易に自分自身の運命を欺くものではない。むしろそういう人物には、ホレーショに対するハムレットの讃辞がそのままあてはまる。「御身はあらゆる苦しみにあいながら、何にもあっていない人のようじゃ。」(第三幕第二場)。
これに反して、自分の運命を受け入れられない人は、自己愛性パーソナリティ障害のように自分だけを全実在だとファンタジー化したり、サイコパシーのように他人のことなど仮面か幻像位にしか考えず、他人の運命などには全然同情をもたないで、自分の関心のすべてを自分自身に向けている。その結果、事実に対して非常にナーバスになってたり、事実を度外視して攻撃することに終始するわけである。

自分の苦に嘆息を洩らすか、自分以外の美に嘆息を洩らし、それと同時に自分の意志を放棄されるか。


自分は一個の人間でありたい
誰にも利用されない
誰にも頭をさげない
一個の人間でありたい。

他人を利用したり
他人をいびつにしたりしない
そのかはり自分もいびつにされない
一個の人間でありたい。

自分の最も深い泉から
最も新鮮な
生命の泉をくみとる
一個の人間でありたい。

誰もが見て
これでこそ人間だと思ふ
一個の人間でありたい。
一個の人間は
一個の人間でいヽのではないか
一個の人間

武者小路実篤 『一個の人間』


男は働き、考える。だが女は感ずる。(ロセッティ)
イデアとして考えるのなら、両性具有が究極。アートマンとブラフマンの鏡像関係で考えるのなら、眼(まなこ)の色域は広いほうがいい。髭とか足毛なんて生えておらずヒアルロン酸たっぷりで哲学をしつつもよく感じるほうが良い。それを感じることは現象と一致している。我々は現象から生まれ出づるもの。科学は感覚不要だが、哲学は感じるところから始めても良い。


-少年愛とはなにか-
古典ギリシアでの理想範型に見られるのは、妻帯者である立派な市民が、教育目的で少年愛に携わることである。このような見地からは、少年愛は同性愛の一種ではない。男性同性愛者が性的嗜好ないし性的指向として、少年や若い青年を対象とするとき、見かけ上、少年愛に見える。しかし、少年愛におけるエラステース(年長男性)は、基本的に両性愛である。-wiki-

『哲学の古典 101物語』木田 元編より 『饗宴』
ソクラテスの演説の内容は以下のようになっている。(1)導入部でのアガトンに対する論駁では、エロースは美を求める欲望である以上美を欠き、従ってエロースは美しくない、との証明がなされる。(2)だからといってエロースが醜悪だというわけではなく、エロースは善美・醜悪の"中間"であり、知恵者と無知者の"中間"たる愛知者(哲学者)である。(3)こうしたエロースが目ざす真の目的は、対象物である美しい物(愛人など)ではなく、「美の内での産出」による「不死」である。つまり、動物は子を残すことによって種として永続する(不死を得る)のであるが、人間の場合このように身体的に懐胎する者の他に精神的に懐胎する者もあり、それは徳を生む者、例えばその詩作品や法制定により不死の名声を得るに至った詩人ホメロスや政治家ソロンがその例である。そして、身体的に懐胎した者(男性の"懐胎"はやや奇異であるが)が女性に近づくように、精神的に懐胎した者は教育・対話の相手として美しい魂を持つ少年に近づく。(4)演説のクライマックス「美の階梯」では、正しくエロースを実践する者が辿るべき道として、個々の美しい身体を愛することから始めてすべての美しい身体を愛することへ、またそこから美しい法律・習俗への愛へ、さらにそこから、美しい学知への愛という過程を経て、最後には不生不滅なる美のイデアを見るに至ると共に真の徳を生んで自らは不死となる、という秘儀が説かれる。
『饗宴』のエロース論は、日常的な恋愛現象の理論的説明、あるいは愛欲の統御を説く道徳説というより、むしろ恋愛の中に、プラトン存在論の根幹をなす"イデア"の認識に至る可能性を探るものである。そして、美の階梯の究極で「突如」美のイデアの知が得られるのであるから、純化されたエロースは知性と表裏一体であり、イデア論に基づく存在論の不可欠の一環をなすと考えられる。(小野木 芳伸)


我々は、自分の昔の愛らしさをその少年の中に見て、愛する。人は愛する者や存在に似てゆく。ガニュメーデスに近い容姿の中にはアポロンの音楽性を秘めている事がある。お互いに。進化論的には結果それが生き残るというが(たとえば鳥に羽が生えているのは異性に魅せるために発達した、結果、空が飛べるようになり食われずに済んだ)、生き残った生命は、渇望してさらにその形象に近づく。イメージ力のある人間はなおさら。
日当たりの淡い冬の日の岐阜、電車で見たあの静やかな動作をする色の白い二十歳ぐらいの子は消えてしまいそうだった。窓際で立っていてずっと風景の中に消えてしまいそうな雰囲気だったけど、携帯を見ながら静かな笑みを浮かべて、その横顔を見て26歳の僕は安心した。以前、僕を不思議と心配してくれた友達思いの友達のあの視線の意味を、理解した。友情間でもある。その日電車内で、僕はほんとうに無意識にその子を心配していた。あの子の繊細な世界まで見えてきそうだった。まず大声で笑うことがないだろう動作と手つきで、どんなサイトを見ていたのかな。そもそも人体は大声で笑うようには出来ていないらしいがね(企みのある人が大声で笑う)。あの子は少女マンガに出てくる眼鏡の似合う種族だった。少女たちの理想とするもの。僕がある種の少年を想う時は、その元気さに秘められたものが覆ることを期待することが多いけど、少女が少女マンガの種族を想う時は、その繊細さが壊れて(眼鏡が割れて)しまわないかを、優しく心配しているのだった。そのことを理解した。

女に告白されると悪い気がする愛者。「今だから言えるけど、昔○○君のことが好きだったの」ならまだ安心。苦しみの経験は役に立つし別の男とこの先成就するかもしれない。男の子同士は、なんかもったいない気がする。女にモテたい者はいつも手に入らず嫉妬するのに、両想いの原理に反して、なぜ少女マンガ系種族が女に好かれるのか。こちらは愛せないのに、向こうは愛してくる。少年を想い描く心が優しいので、その想う心のまにまに想われてゆくのだろうか。僕といると癒されると言われたことがある(自慢)。でも僕らがモテるのは、その対象の可愛さやうつくしさによるところである、ということがわかっていない者共にたいしては伝えたい。その子がかわいいからこちらもかわいくなりその恋慕に女が引き寄せられる。その原理がわかっていないということは、それを永久に超えられない。あ、いけませんね、間違えました、もしわかってしまったら、、。やはり男はいつも嫉妬をしていて時にはセックスの関係に持ち込めて狂喜乱舞し、そんな間欠強化の関係が一番無難で人生楽しいかもしれない。
話は変わるが浅間大社の隣の富士宮やきそばの店に入ったとき、天然名物なおばさんに「スカウトとか大変でしょうっ」とか「東京から来ていると思ったっ」とかコノハナサクヤヒメ(浅間大社のご祭神)みたいに言われて、次の週、神道の先生におうかがいをしてもらうと木花咲邪姫がどうしても出てくるといった。僕は静かに見えて究極に自我が強く、たいして働いてもおらず、美川憲一とは比較にならない見下し癖があり、それは細木数子の高談など謙虚に見えるほどで、そこまでは先生見抜いているが、さらにはこの性愛を理解できない奴は、いや理解できないだけならいいけど棄損する者なら地平線の彼方まで追いかけてでも絶対に滅ぼしてやろうという意気で生きているのだけれど、実際そうしているのだけど、コノハナサクヤヒメはこんな僕のことすら祓い清めてくれるかもしれないと思った。コノハナサクヤヒメだけは、なんで僕だけが生まれ持った天賦のとおりの対価が得られていないのか、社会は生まれ持たなかった天賦を理解できないで滅ぼしているのか、そんな疑問や怨恨すら覆ってしまいそうな気がする。どれほど僕が神よりも偉そうでも見放すこともなく、成長するまで待っている気がする。