ショタフィロソフィー [U]

コブダイはメスからオスへ性転換する





自分は犬とかすずめのような男の子が好きだ。だが致命的なことに男の子は成人を迎えると人間になってしまうようだ。男の子は永久に男の子でないのか、なぜ生体の原理はそのようになっていないのか。結婚するために生きている、と考える女性は多くいるが産まれた子供はすべて20年後に成人になる。結婚できる人生でも結婚できない人生でもあまり価値はなさそうだ。
自分は犬とか猫とかすずめのような男の子が好きだが、理想は二次元にしかほとんどない。現実ほとんど守備範囲外なのが毎日苦しい。ジャニーズとか子役の男の子とか様々なショタジャンルがあるが、グーグルで漁りに漁り尽くしてみても全部だめだった。男だからだろうか…。漁りに漁り尽くすより、自分がわが自分でさえあればおのずから導かれる気がしてきた。また、そのような経験をした。それはお祀りしたり奉仕する~社仏閣や願掛けした神仏の審りか、似通ったヌースの引き寄せあいかはわからないが、ふさわしいところにもってかれた。知らぬ間に集うすぐれたる顔触れ。ある電車の高校生の群と恋愛関係になったときは自分が穢れればその子も穢れ、たいせつなことを教え教えられた。その子らの卒業後、この世のものとは思えない悲しみに沈み3月に大震災が起きた。その後、ダイヤも変更された。[詳細:男子高校生のほうをーURL]



自分の場合、「美少年」は嫌いだけれど「かわいい男の子」は好き。たとえばふっくらしたほっぺの一重の仔が好きです。24歳ぐらいまで。そんな「美少年好き」とか「かわいい男の子好き」は、「ゲイ」ではなく「ショタコンプレックス」とか「腐男子」に分類されるかもしれない。そしてゲイは美少年が特に好きではない。ゲイの人に「僕はショタコン」というと不可知な領域のような反応をされる。周りの女でも男性の事は好きでもショタには見向きもしないし。
自分は誰ともふれあったことがない。非現実界で交歓したある動物ッ仔にももう会えない。この孤独な人生によってある能力が発芽する(霊感があると自称する人自体が少数派で知能的に弱そうで敬遠されがちだが自分は霊性があると言える。二者択一なら目隠しで当てられる。カミングアウトしないとコミュニケーション出来ないからいつしかエスパーでわかるみたいに人の心が読み取れるようになった、でも他人は僕の心理が読み取れない。それを忘れると仕事してても説明不足に陥りやすい。アスペルガーの様に自分が知っている事はすべての人に共有されているかのようなコミュニケーションに陥る。霊感とかいふ能力があるからといって宗教的に優れているというわけではないが、通常、苦労の賜物である。孤 独 だ か ら 霊感が強くなる)。
余談:富士と云えば浅間大社の神域らしいが身延線に乗って富士山にどんどん近づくと、近づくにつれ輝きめくものが浸透してきた。神社の神殿(特に拝殿)では白い神気あふれるが、山からは初めてで、それが不思議だった。たぶんリュックに入ってた浅間大社の神札に反応した、または神札が富士山に戻ってきたよーと反応した。山にはなにが宿るものかは。あの山頂の白。その美意識は少年であれ女にたいしてであれ、通底しているとは云われざるものかもしれない。純粋な少年のこころはあでやかな色と香りをはなつ。その色彩は神器の白に合う。唯一普遍的な白に合うは豊かな色彩。
雀にしてもバイオリンにしても美しいものは色不異空で美したらしめられた所縁がある(そのように求めて発達したその姿形が、色不異空。またその姿形が美しいのは重力とか音の世界とか複雑であるうえに量子的に物理的にバランス良く成り立っている、単に単純ではない)。
少年の声は高くて無性独特の甘やかさが伴ってる。ホールに響くとそのたおやかさ倍増。失神してしまう。少年はとくに自分を見つめて噴火するのはいつぞ知れぬうちがいい。そして、夢精しはじめた中1の頃は、ちんかすの匂いすら馨しいものであつた。それはまだ汚れていないゆえに、細胞が劣化していないゆゑに。ネット上の書き込みで読んだけどある整体師曰く「不思議なことにイケメンとか美少年ほど匂いがいい」らしい。ほんと不思議だ。色不異空。色(姿)と空(霊性)は一致する。僕は視力を失っても一層明瞭に美少年を嗅ぎわけることが出来るだろう。また、感覚器官のすべてを失ったのちも、醜少年をば小君の様にかわいらしめるなどの努力を怠ることのないようにしたい。多分自分は死んだら荒~か荒御魂か怨霊になるが美少年さえそこにいれば和魂幸御魂になる。



-源氏物語-
小君が可愛い。小君はらうたげであるが少しブサイクな日本男児のようだが、源氏に気に入られて眷属にされていた。源氏の趣味は僕と一致している。日本男子の一重の可愛い顔を可愛いと思えないようではなんのために日本に産まれてきたのかわからない。源氏物語は憑いてる。紫式部が天才なんだろう。小君を追い求めて源氏物語を読んでいるおりには、ボケかけているおばあさんが「最近僕のところに可愛い子が出入りしてないか」とか言っていたURL。小君のひとつひとつの行動をみていると、現代の少年愛者が慈しむサッカー少年の光景すらゆうに通り越えてしまいかねてはいない。とはいえたとへブリチラが見えたとして、富士山の白よりも淡く儚いもの。体操服など汚れやすいもので、ある日ふいに暴発してしまえばびっくりとして、それでがっかりとしてしまわれる。一瞬しか見えないし、桜のように咲いてるのはひとときだけで、次咲くのは来世....
源氏物語とかあずまんが大王のような精神性はなかなか異国民には理解されない。野球も教会も小籠包も、たしかに本場のほうが優れている、でもそれが理解できる、という時点で同様に優れている(鏡像関係)。そのはんたいに、向こうの人に日本のもののあはれ、静けさ、まごころ、曖昧さ、武士道、神ながら言挙げせず、神社の存在価値がわかるかといったらほとんどの人に無理だろうと思う。ゆえに劣化した現代日本ではセミナーカルト程度の思想が流行ってる。源氏物語は当時ほとんど同人誌で鎌倉後期には仏教経典以上の権威を博するのだけど、なんという知性や想像力の豊かさかと思う。当時の国の霊格に戻したい。日本アニメは外国でも流行るけど、外人が萌えを表現するとどうしても…。その絵を見ると、ぜんぜんわかってないと思う。でもきゃりーぱみゅぱみゅがフランスとかで売れてて「かわいい」が理解されてるところをみると、いつか外人にも理解されるものかもしれないが。そうしたら前言撤回します。








-マンガ-

「赤ちゃんと僕」は高校のころアニメ化していて、管理教育の監視の中に生きていた自分としては、信じられない世界で、ひとときの癒しとしてみていた。友達も見ていた。もちろんその友達はショタとかやおいではない。その世界がよかったのだ。
僕は高校当時も今もやおいは求めていない。まず第一にはキラキラした少女マンガの目つきはその時点で対象外である。赤ちゃんと僕もその点では少女漫画の領域であった。自分はそもそもブラコンではないし、近親相姦とかは完全に他人の環境として見られる人ならいいけど実際に兄弟がいる人には高確率で無理なパターンである。萌えるならファイヤーエムブレムとか。戦って、死ぬ時の台詞に。そのように性嗜好に合わなくても「赤ちゃんと僕」はプラトニズムで読めるからいい作品だと思う。作者の羅川真里茂さんも、ファンからショタコンを疑われた手紙を受けるけど実際にはそういう嗜好はないですとのこと。「いつでもお天気気分」にも結構かっこかわいい男の子が登場するけどやはりキャラの一つの類型でもののあはれで描いていると思う。なぜかそそらないのです。(小学中学で性的に目覚めていなかった人は特にそんなに即物的にはならないもので、なんでもかんでも性に結び付けないのが自然。ルソーも同胞愛とか友愛というものはその時期にしか備わらない神の賜物という。あまりに早熟では獣性が育つ。「適度な射精は健康に良い」などというのは希望的観測。我慢するのが体に悪いというだけである。実際は短絡と白痴化に向かうので学歴とも相関関係があることと思う。事実東大1年生の男の子にはオナニーすら知らない子が多いという。やっぱり中高生は部活動で疲れさせて家ではバタンキューさせないといけない。携帯のある現代の子は夜中の1時まで起きてる。発育不良を起せば赤ちゃんと僕とか源氏物語の時代の健全な世界がわからなくなってしまう)(神の世界では性はやはり様々に存在していて利他的なものから獣性のもの、あるいは美意識のレベルも上から下まである。修業などで性愛を禁忌にするのはそのレベルの愛を超えるためにあるのが普通である。けれどその到達した性というのは、やはり人間的ではない。肉体とのかかずらわりのない愛だから。愛はたしかにギリシア的な意味でエロスも包括するものであるが、愛はもっと通俗的ではないことのほうが多い。) 
赤ちゃんと僕はマンガという形式のみではなくアニメでもほんとうによい作品なのが貴重。エンディングの曲とかすごくいいし。ほんとアニメ化してよかった作品は少ないと思う。同じく日常のあはれを描いた「ちびまるこちゃん」の場合はアニメではてんでおもしろくなく、作品にたいする誤解にもなってる。さくらももこは「神のちから」とか「永沢君」とか「コジコジ」が名作すぎるけど、吉田戦車と同様、あの電波のアニメ化は困難だろう。ねこぢるのアニメも見たこともあるけど、・・・うんぬん。マンガには文学的な要素があるんだろうな。僕は守備範囲が狭いゆえ、絵になるとたいていだめで、文学の中にしかイデアは温存されなかった。3Dである歴史的な彫刻でもやっぱりだめなんです。

ほかには「あずきちゃん」はよかった。だいずのしゃべりとか性格とかかわいい。




ファミコン 『キャプテン翼』



-馬鹿の壁、構造の壁を認識するパイデラスティア-

少年愛について述べると全宗教を統一する予定のメシア協会の場合は青年が少年を愛すなんてそんなことがありえるのかというファンダメンタルな思考基盤。まさに理解できない性愛を理解するということは、クラシックの理解できない人にクラシックを理解させるようなもの。神の掟に背いたルーシェルの仕業にされている。・・・共同幻想の外にあるメンタルを理解しようとするニューロンの質は既に固まっている。まさにパイデラステースのピリアーを淘汰するアガペーの人は、一方で、クラシックを理解できるのか。「惑星」はポップミュージックなので誰にでも。(その惑星ですら僕と同じぐらいに音楽を描けているのかとなるとそこはかとなく怪しい大部分だけど)。ヨハンセバスチャンとかモーツアルトとかベートーベンの一部の有名楽曲ではなく、くるみ割りにんげょうとか白鳥の湖でもハイライトではなく全曲とか、ショスタコーヴィチとかグラズノフとか戦争と平和、ドビュッシーでもペリアスとメリザンド、ハチャトリアンでも組曲以外、フルヴェンでも彼自身の交響曲、そのほかスクリャービン、ヴァインベルグ、ジョンアダムズ、ライヒ、セシルテイラー、ハービーハンコック、ロビーロバートソン、日本の民謡、武満徹、音楽のみでないプラトン、ダンテアルギエーリ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、小林秀雄、手塚治虫、プルースト、ヘーゲル、あるいは古事記、檸檬、色不異空、密教的秘術の要素や科学と信仰科学の違いもちゃんと理解できて、かつそのうえでカルトの定義に抵触しない慈悲をもって言っているのだろうか?…プロコフィエフが電波だということがわかればそれだけで満足だけど、そういうところまで求めたくなるのは、自分の宗教でしか通用しない絶対真理で宣っているようにしか見えないからである。自分のパラダイムから解脱してないか少なくとも僕の方が解脱している。僕がそのパラダイムに帰依すれば、それは逆行になるだろう。
慈悲の薄いものにたいして慈悲を与えるヒエラルキーの仕組みがあるとすれば、知悲行徳に優れたるものは智性の光を与えないといけない立場にもなるけど、上にいる神仏は僕にまごころとか慈悲の光を与えてくれるので忘れる。板挟みの苦労を知れたのはよかったとして、唱えてきれいにして忘れるのがやはり健全か。一旦外に出て見てみないとわからないことが多くふつう共同幻想の中にいるうちは普遍に通じないが、解脱している如来はそれを超越してフェアであるから髪を後ろで結って装束をまといナルキッソスな信仰表明の態度を人に見せる人以上に慈悲を賄ってくれる。むこうはラ・ロシュフコーのように見えている。まったくもって自分の無観力盲信で語る人は僕より純粋とは思うけどそこが見えていない。分類すれば、仏を超えたるところに如来があって、それが宿ったのは開祖であり、開祖は如来ではなく生き仏であり、生き仏にあやかるものは人間であり、人間は目でみただけの生き仏を如来と観じているわけではないけど信じ、その教えを信じられないものはそれの理解できない人であるとするが、観じているわけでないけど信じるその言葉に不具合を抱くものは不信ではなく生きて無為にあやかっている所以もありうるということについては無化される。その他霊性の適不適もあるだろうに。そこにいるすべての人が麗しくも、盲信のさなかでは低い正当性のうちに高さはスポイルされる。それで円満、目に見えないものは信じない無神論と奇跡を見たからメシアを信じている信仰者はいつも同次元となる。予言にしてもそれは神仏の洞察の賜物だと思うが、断じて洞察ではないとするのならば、未来のすべては決定されているということになる。命をたいせつに一日一日を生きる、と訴える必要もなくなる。決まってるのだから。なぜ神に救ってもらう必要がある。君一人が運命から逃れれば、その後の運行にズレが生じまくりではないか。僕は宇宙の年輪に比例した情報が敷衍しているとか神はかりに審りたまひて採り決めて運用されているという仕組みにあったほうが雄大に思える。ここもかしこも宇宙はヒッグス場の海に満たされており、ほとんどすべてが既に偉大な演算のうちにあり、進行する舟に乗る。
現象にはさまざまな側面があるのでなにがただしいのかはわからないが、階層の上の側面にたいしてはいわずもがな、僕が全域的に自己主張なく無批判に書いていることがわかる人には、中性的な少年ゆえに男らしくみせるかっこつけ半分で書いていたあの子の攻撃的な散文詩の犯されたい詩情もわかるかもしれない。あの子というのは名前忘れたけどフランス18cのあの子です。アルチュールランボー
魂の格は音楽性で決まる。客観の悦に入り容姿的にも大人に愛されなくなった20代からは、いかに優れた詩情を純粋主観のうちに奏でることができるかの努力に因る。全体主義とか原理主義に歴史とか文化はわかるまい。伝統のある外の高閣を無思惟に批判したらばたとえ優れた禅師でも障子の扉は振動しまくりで。人情の演出より先にこの現象をいかに素直に解釈できるか。同志を讃えるに混じり自分たちに都合のいい「すごーい」があふれる気味の悪さよ。メシア教団の悪因縁を祓ったら信者が被ってる。やはり魔はしつこい。
このまえ神棚のお神酒の筒の中から羽衣めいたものが出てきた。勇気をもってそれに触れるとさらさらと気持ち良かった。憎しみは離散するが愛は癒着を生み固成する。性のエネルギーは昇華すれば神仏の霊気のように輝くオーラになる。そこでマルチ商法。殆どの人間は単純な貪欲の虜のまま。恍惚の人が恍惚の中に容れようとするのは気分の悪い愛ゆえに。そこに取り込まれればチェルベロ逝きで。僕が教条宗教に願うことは、どうか信者が布教に結び付かない音楽でありますように。。自分が信仰すれば、おのずからついてくるのだから。自分ではなくその対象の方に。僕も少しでも無為のうちにあれますよう









-少年神を擁護する方法-



wikipediaの少年愛の挿絵は「夭折するポリュデゥキオン」というものが使われていたけどやはりギリシアの子は日本人からみても愛らしいなにかがあるんだろう。青年には興味ないけど、アンティノスも相当かっこよかったね。ハリーポッターの主人公のギリシア版みたいな。その他なにかないかと少年愛そそる彫刻を検索で簡単に漁ってみたけどこのポリュデゥキオン以上のものはなかった。体躯はもとより、顔がいい。抵抗が少ない。もう少し布を着せてもよかったけどそうすると余計にエロスになるから複雑なところ。上野の国立西洋美術館には常設のところに「ほら貝の音を聴く少年」だったかそんな愛らしいロダンの彫刻があった。それは海で裸であるも、エロスではなかった。自然の美しさを感じ取ったレミニセンスを、あの感受性の美しい時期の子供に託したのだと思う。顔は最高にかわいいけど(貴重)、無邪気な感じでそそらない。(だからそそらなくて結構なんだけど。
ポリュデゥキオンは他にも見つけたけど、この彫刻が一番美しかった。この彫刻は、画像のコントラストによって多少見え方が違っていて、ひとつの彫刻で何度か楽しめる。日本のwikipediaの画像ではなんか怒ったような目付きをのぞかせる。神格らしい毅然とした姿で。でも別のところでみたやつは鼻が不細工に上がっていて口もとには力がなくだらしない印象、人間にまじまじと見られ過ぎていてそれに負けてそうな気配がある。もう見ないでください。力が入りません。いやですごめんなさい。誰か、誰か。ここに貼ったのは僕が色調とかコントラストを緻密に調整したもの。途中で少し興奮してきた。僕は死んだらポリュデゥキオンをまず奪いにいく。
と、そう書いて寝ようとしたらポリュデゥキオンなのかなにか知らないがすごい冷たい震えた嘆き声が耳元から入ってきた。だめだ。あの声は怖かった。神格化された少年は不浄霊なのかもしれない。もしも不浄霊とすらば恐らく神をも恐れぬ貪欲者につきまとわれ過ぎているからという以外に理由は見つからず。虐待。ポリュデゥキオンとか美少年たちを護る眷属はまた美青年で、美少年たちはトラウマたる男の視線や本能に始終囲まれている。逃げようにも逃げればもっと嘆かわしい状況に堕ちる。これではノイローゼとなるも仕方ない。少年たちにとってゼウスは信用ならない。ガニュメーデスを奪い去ってる存在だから。「神の彫刻を視姦すべからず」 そんな法律を定めても余計に誘発するのみ。少年神たちはいろいろの母性なる神に護られないと安心できないことだろう。子供は親や学校に護られていなければならない。保身の足らない少年たちがノイローゼに戦う姿をみてやりきれないのなら少女たちを護るといい。護るとは煩悩の穢れによりその子らが穢れてしまわないように護ることである。ゆえに煩悩を持ち合わせているものには不可能の業。少年を護るために少女を護ろう。さすればロリータたちが少年たちを護ってくれるにちがいない。少女神に近寄る煩悩霊がいたとすれば、むしろ我々は彼等からそのロリーティスムを得るぐらいでいたい。彼らは余剰に苦しんでいるのだから僕の究極の無関心と引き換えに交渉してちょうどよい。彼らにはどうしたら少女らを見境なしに愛せるかを説明させる。そのうちに僕のあまりの理解力のなさに、彼らは自分自身、なぜロリータなのかをわからなくなっている。逆に僕の無関心より相手のロリーフェティスムのほうが偉大で、具体性に優れたそれに感応できたとしても、せっかくのそれも虚しくショタフェティスムへと変換されていることだろう。この究極の無情。コペルニクス的転回。愛の反対である無関心。この僕に護られる少女たちは姦通の恐怖から逃れられるもこの無関心の地獄に落とされている。なんという平均値。対価。完全なる社会契約。やがて女には宿命的に耐えられぬ地獄の凍える寂しさから逃れるため、少女たちは愛されたい気分いよいよ増し、凍えたる身体を温める欲、乳房の先から芳香せしめてしまい男たちを吸い寄せるようになる。一方ロリータに護られる少年たちは以前は構えていたのに愛されたいふうになり、一層素っ気なくねだっている。見せないふりをして見せ、その姿を美青年に観察させ駆け寄られ、抱擁をされるようになる。
視姦によるノイローゼ ← ◎ → 無関心の厳しさ
結句、振り子が振れているだけであつた。美少年のうちに夭折した子は、地獄に付きまとわれているのだ・・・








高貴な人物は容易に自分自身の運命を欺くものではない。むしろそういう人物には、ホレーショに対するハムレットの讃辞がそのままあてはまる。
 御身はあらゆる苦しみにあいながら、
 何にもあっていない人のようじゃ。(第三幕第二場)
このことは次のようにして理解せられえよう。そのような人物は他人のうちにもまた自分自身の本質を認識して、その人達の運命を自分のものとして共感しているのであるから、自分のまわりに、殆どいつでも、自分自身のよりももと苛酷な運命を目撃している。そこでそういう人は自分自身の運命を欺くような気にはなりえないのである。これに反して、自分だけを全実在だと思いこんでいるような卑しい利己主義者は、他人のことなど仮面か幻像位にしか考えず、他人の運命などには全然同情をもたないで、自分の関心のすべてを自分自身の運命に向けているのであるからして、その結果、非常に敏感になってしきりに嘆声を洩らすということにもなるというわけである。― ショーペンハウエル ―
美を苦に置き換えても同じだった。このショーペンハウエルの一文で恥じ入る人は、他人への同情に虚構が出てくると予測される人だから、次にはラ・ロッシュフコーに辛辣に抉られる運命にある。どうせ殆どが高貴な人物ではないのだから、無理しなくていいと思う。
これにはもろ刃なところがあって、共感しやすいぶん他人にたいする理想が翻るとか、例えば不自尊毀他戒が翻って他人の実力の伴った慢心すらも、陰の努力の伴わない慢心と見境つかずに許せなくなるとか、そういった不愉快な衝動の波も、引いては返し、引いては返して押し寄せる。だからに敏感になるなどのメンタルが逐次見られる。

自分の苦に嘆息を洩らすか、自分以外の美に嘆息を洩らし、それと同時に自分の意志を放棄されるか。
このページに描かれるような苦悩は、ボードレールの散文に近い世界で、限りなく無理解の孤独に遊ぶ必要もあろう。生き霊の関係性、集合無意識の共時性で考えても、共感のできない所有物には、共感は返せないもの。その苦悩が仕事の苦しみという形状・ヌース振動をしているのなら、ともかく。
パイデラスティアの運命なぞはせいぜい憐憫されるのがオチで、それを根拠に据えて身勝手な推論にもっていかれるぐらいである。彼らをこそ本来は幻像者というが、幻像である自己には気づけるわけでもないのである。意味を付けるほどウィトゲンに反するものはないのだよ。(水は宇宙からきていて地球のものではない。念の影響を受けて結晶の形を彩るというトンデモ本が出版社に受け入れられないから被害者的に肯定する生粋の独善を殲滅させてください。そう如来様に文句を垂れているが、賢くない人間は賢くはない。もしかすると薬師如来も人間的には賢くはないのかもしれない。やがて僕はウエルギリウスにゆだねるを必要とする森の中に迷い、「でも仏はもう死んでいるのだよ」とレスピーギの交響的印象に教えられた。次の日別院に行けば、水の中で泡がぶくぶくとふいている横たわる死にかけの人、そして関係の無い大人の顔が凹、関係のある者は依然、考えが浅い。しかしに滅ぼされかけたときにも自分が悪い気がしていた。できあがった神殿に火を発火るとはいかに。僕は昔はちいさな仏、今は大迷惑なパイデラステエスになってしまったのかもしれない。・・・今朝死んだすずめを松ノ木の土に埋めたけど、もうそのすずめはすずめとしては飛び回れない。つい昨日には僕のほうを探して手の中に入ってきたのに。)
肉体のある者がそれのない世界に、なぜわからないのかなどと言っても知れない。我々が教えられることはあれども。新規有機分子デバイスの作り方に脳が悩み、それのない世界から創成段階の印象が必要だと想像に協力してもらっても、開発を自分の名義にするのが常である人間様様よ。僕は自由意志のみではなく頭を地に埋もれさせるほどの懺悔と、懺悔のみではなく
ほどの自由意志をもちたい。


自分は一個の人間でありたい
誰にも利用されない
誰にも頭をさげない
一個の人間でありたい。

他人を利用したり
他人をいびつにしたりしない
そのかはり自分もいびつにされない
一個の人間でありたい。

自分の最も深い泉から
最も新鮮な
生命の泉をくみとる
一個の人間でありたい。

誰もが見て
これでこそ人間だと思ふ
一個の人間でありたい。
一個の人間は
一個の人間でいヽのではないか
一個の人間

武者小路実篤 『一個の人間』




男は働き、考える。だが女は感ずる。(ロセッティ)
イデアとして考えるのなら、両性具有が究極。アートマンとブラフマンの鏡像関係で考えるのなら、まなこの色域は広いほうがいい。

女に告白されると悪い気がする愛者。「今だから言えるけど、昔○○君のことが好きだったの」ならほんとに安心。その人は愛者のメンタルとの兼ね合いをすごい尊重していたから結果、そういう告白形態をとるよう無意識が調整されていたのだと思う。でも自分の感情やそれによる定義が主体になっていて相手の内面や真実を見ていない人に所詮高級な愛などなく、容貌や所作や学歴に目のくらむタイプ、叶わぬ夢を見ている。今の時代、イデアなど一欠けらも縁のない種族の夢に溢れかえっている。
その人がこのことを理解できないと判断したら、永久に話すことなどしないでしょう。生涯理解できる類のものではないので。

少年愛とはなにか
古典ギリシアでの理想範型に見られるのは、妻帯者である立派な市民が、教育目的で少年愛に携わることである。このような見地からは、少年愛は同性愛の一種ではない。男性同性愛者が性的嗜好ないし性的指向として、少年や若い青年を対象とするとき、見かけ上、少年愛に見える。しかし、少年愛におけるエラステース(年長男性)は、基本的に両性愛である。-wiki-


『哲学の古典 101物語』木田 元編より 『饗宴』
ソクラテスの演説の内容は以下のようになっている。(1)導入部でのアガトンに対する論駁では、エロースは美を求める欲望である以上美を欠き、従ってエロースは美しくない、との証明がなされる。(2)だからといってエロースが醜悪だというわけではなく、エロースは善美・醜悪の"中間"であり、知恵者と無知者の"中間"たる愛知者(哲学者)である。(3)こうしたエロースが目ざす真の目的は、対象物である美しい物(愛人など)ではなく、「美の内での産出」による「不死」である。つまり、動物は子を残すことによって種として永続する(不死を得る)のであるが、人間の場合このように身体的に懐胎する者の他に精神的に懐胎する者もあり、それは徳を生む者、例えばその詩作品や法制定により不死の名声を得るに至った詩人ホメロスや政治家ソロンがその例である。そして、身体的に懐胎した者(男性の"懐胎"はやや奇異であるが)が女性に近づくように、精神的に懐胎した者は教育・対話の相手として美しい魂を持つ少年に近づく。(4)演説のクライマックス「美の階梯」では、正しくエロースを実践する者が辿るべき道として、個々の美しい身体を愛することから始めてすべての美しい身体を愛することへ、またそこから美しい法律・習俗への愛へ、さらにそこから、美しい学知への愛という過程を経て、最後には不生不滅なる美のイデアを見るに至ると共に真の徳を生んで自らは不死となる、という秘儀が説かれる。
『饗宴』のエロース論は、日常的な恋愛現象の理論的説明、あるいは愛欲の統御を説く道徳説というより、むしろ恋愛の中に、プラトン存在論の根幹をなす"イデア"の認識に至る可能性を探るものである。そして、美の階梯の究極で「突如」美のイデアの知が得られるのであるから、純化されたエロースは知性と表裏一体であり、イデア論に基づく存在論の不可欠の一環をなすと考えられる。(小野木 芳伸)






自分の昔の愛らしさを見てその愛らしい少年を愛する。人は愛する者や存在に似るというから、ふつう愛者はガニュメーデスに近い容姿のなかに、アポロンの音楽性を秘めている。
日当たりの淡い冬の日の岐阜、電車で見たあの静やかな動作をする色の白い二十歳ぐらいの子は消えてしまいそうだった。窓際で立っていてずっと風景の中に消えてしまいそうな雰囲気だったけど、携帯を見ながら静かな笑みを浮かべて、その横顔を見て安心した。僕を不思議と心配してくれた友達思いの友達のあの視線の意味を、理解した。僕はほんとうに無意識にあの子を心配していた。あの子の繊細な世界まで見えていた。まず大声で笑うことがないだろう動作と手つきで、どんなサイトを見ていたのかな。あの子は少女マンガに出てくる眼鏡の似合う種族だった。少女たちの理想とする繊細さを秘めているあの子は、細身で、受け身で、いつ死んでしまってもおかしくなかった。僕が少年を想う時は、その元気さに秘められたものが覆ることを期待することが多いけど、少女が少女マンガの種族を想う時は、その繊細さが壊れて(眼鏡が割れて)しまわないかを、優しく心配しているのだった。そのことを理解した。
これは完全に世を浮いている。
この世間全般の価値観でいう社会不適応者のほうを見て女の目は輝くのだから、世の中、うまくいかない。女にモテたい嫉妬深い者自身はいつもそのことに嫉妬するから、余計にモテなくなるのは仕方ないが、両想いの原理に反して、なぜ僕などが女たちに好かれるのかがわからない。僕は愛してもいないのに、向こうは愛してくる。向こうは愛してくるのに、僕は愛せない。きっと僕が少年を想い描く心が優しいので、その想う心のまにまに想われていたんだろう。だから僕といると癒されると言われても、それは癒すものをもっていたあの眼鏡の子の雰囲気に似てしまっていたからにすぎなかった。愛者は若いうちは女に不自由なくとも、少なくとも僕に関しては余計な虚栄心を産むだけだった。僕らを馬鹿にする者にたいして。僕らがモテるのは、その対象のうつくしさによるところであるということがわかっていない者共にたいして。わかっていないということは、それを永久に超えられないということにたいしてだ。
でも浅間大社の隣の店の天然名物なおばさんに「スカウトとか大変でしょうっ」とか「東京から来ていると思ったっ」とかこのはなみたいに言われて、次の週、神道の先生はこのはながどうしても出てくるといった。僕は静かに見えて究極に我が儘で、たいして働いてもおらず、美川憲一とは比較にならない見下し癖があり、それは細木数子の高談など謙虚に見えるほどで、そこまでは先生見抜いているが、さらにはプラトンソクラテスを理解できない奴は、いや理解できないだけならいいけど棄損する者なら地平線の彼方まで追いかけてでも絶対に滅ぼしてやろうという意気で生きているのだけれど、実際そうしているのだけど、あのこのはなだけはこの僕のことすら祓い清めてくれるかもしれないから愛せるかもしれない。人間の女では僕のすべてを覆うことなんてできないだろう、日本を横断しても。でもこのはなだけは、なんで僕だけが生まれ持った才能と生い立ちのとおりの対価が得られていないのか、なんで社会はその生まれ持った主観で生まれ持たなかった天賦を理解できないでいるのか、なんでなんでという要望や怨恨すら覆ってしまいそうな気がする。どれほど僕が神よりも偉そうでも、もう知らん!と見放すこともなく、成長するまで待っている気がする。それは人間―神間の母性愛かもしれない。