もし一緒に過ごすことがあれば、あの子は僕のポーカーフェイスや言葉を選ぶような洗練を恐れるだろうが、ダイレクトに出てくる振る舞いを一つの優れた才能として捉えている僕は、内心ではもっと恐れている。恐れるのはなぜだろう、それはどんなに洗練された振る舞いよりも本質的に美しいからだ。特にあの子のそれは天性的なもので、平凡な素性、集中力を欠いた知能、ただの厚かましさからではあの「洗練以上の凄み」は生み出すことはできない。物理的に知りうる余地がないはずなのに、どうあがいても質的に勝ることはない、と確信しそうになるから恐れるのだ。
おばさんが降車してからもいろんなところをキョロキョロしたり通路越しに友達に話しかけていた。でも次第に静かになった。僕はかわいい子と目が合ってしまうと、その後は意識していることを感じさせないようにするために気だるい態度ですこしずらした位置を呆然と眺める、横目でも見ることはしない、そうすると見たくても見ることができないもどかしさが一層もどかしいのだが、感度の高いその子は、そのことを察知して照れていたのだろう。と思ったら不良みたいなのが出口に座っていて、その隣にその子がいて、その子が静かになったのはそのせいだった。僕を見て照れていた訳ではなかった。少し自分の思考に恥ずかしくなった。
でも僕はその子を恐れるのに、その不良みたいなのを足組んで極度の冷ややかさで何度も見下ろしていたら恐れられる、そしてその子はそのヤンキーかぶれを、質的に劣っているはずのその生き物を、恐れていた。そんなトライアングルがあって、よくよく考えてみると面白い。世の中の力関係を端的に顕しているかのようだ。
その子は降車駅が近づくと、急にスタッと立って、向こうに座ってる仲間の頭をついて、さりげに仲間と隣の車両に移動して、降りて行った。装いや陰りのない、しなやかな動作だった。芸術的な光景だった。
あの子を見たあとでは、どんなにかわいい中高生が乗車してきても数段見劣りがした。ていうか何も思わなかった。もう家に帰ってもいいんじゃないかな、と思った。
それにしてもふとした瞬間に訪れるものだ。 僕はあの車両に乗っていて幸せだった。