カルマ量:OK(死でも超過あり=殺してよい)
羅殺天が待つ街
夜叉羅が庭に出てくる時間帯
「そこに眠る奴の血管壁は、硬くて歯ごたえがあるし、魂はそのあとで、西洋から観測した東洋にいる金あるカバラに高く売れる」と告げる


(中略)マルキドサドのような特殊な天才が美徳をあしらう結論に至るのならいい。でもたいていは本質の歪められたその結論によって躓いてゆく。あぁ愉快だ。ノーマルな人生を歩んでいる人は美徳によって失うよりも得るものが多い。また、美徳を捨てれば失うもの以上に霜烈な波動を浴びる。それを吸収してロゴス的に抗うことが知能的な弱者にできるのかな?疑問だね。人の本性を悪だとすれば自分の本性が悪となる。脆い自我では性悪説の形骸に埋没するのがオチだ。
まぁどうでもいい。とりあえず性悪説は、哲学としての純粋な帰結の場合ほとんど面白くなく、育ちの良い女の煙草のような似合わぬ虚勢は中間で、芸術的に面白いのは自我の崩壊を免れるために唱えられたものである。
いつも狷介な人がいつもほがらかな人に交わると内的に衝突する。
「あいつ人を信用していて単純だなぁ、いつか騙されたときには笑ってやろう。親にすら愛なんてない。あるのはエゴイズムだけだ。」
でも人間を信用する人は打算的ではなく本質的に信用しているのでひどく裏切られることはあまりない(因果応報)。裏切られてショックを受けてもゆがむ素地がない。人を信用するなとの警告を振り返り教訓にすることもなく、自己崩壊したその笑いを不思議に思うだけだ。この二人が衝突したら、片方は涙を流し、片方は脂汗を流すことになる。
笑いのめそうとした笑い方は笑える…なぜここまで惹きつけるのか。まだまだ芸術化の余地がある。(精神と身体を養うのは善である。悪の芸術化にはある種の善がある。悪を利用した単純なオリジナリティーはあぁ簡単、しょうもな、という感じだけど、悪を利用して悪に対する冒涜が感じられるものはスペクトルになる。この程度の芸術経験は一度は誰でもあるだろう。)
さて、なぜその笑い方はいびつに思えるのか、それは五体が調和していないからだ。快いハーモニーは数学的に調和している。いびつさとは不協和・discordanceのことだ。融解・dissolutionされたまま互いの成分が引き合わず、それどころか反発しあっている。その不協和とは具体的にはこの場合、子供に愛を与え親に愛をもって応えるという動物本能に逆らうところからきている。
金・権力・性 .etc 外形的なものは説得力があるね。馬鹿でも見ることができるものだ。でもクリスチャンには神がいるという証拠を必死に提示させるわりに、心霊現象はれている人間がいかに多いことか。「科学的に考えれば存在することはない」と自己暗示をかけている時点で怖れている。なぜ背後を振り返らず早歩きで進む。
霊感の高い人は、目に見えるものではなく、内在するものを感じてしまっている。
自分だけが与えられるはずのものを与えられず与えられるべきでないものを与えられてきた現実を、目の当たりにすることを恐れているんだろう。人間の行動の第一に金や権力や性があるとしておかなければ自分が侘しくなるから最後の防衛機制として「人間の本質は悪である」と傍迷惑にも強烈に主張するのだろう。音感的には自他共にそれは単にソシアルな要望でしかないことはわかっていても、精神的な側面をないがしろにせざるを得ない痛切な心理が、第三の目をもつ僕には読める。ごめんなさい本気で真摯にさげすんでます。あはは あはは あはは。目は笑っていないが。いやなんでもない。
いかにも現実風の思想を真理と踏ませ転ばせようとするのがお釈迦様のいじわるなところだ。性悪説は人間学の鬼門であり、数学で言えば二次方程式の段階。この時点で躓いて抗わなかった男の子、本当は機械の設計がしたかったろうに。下を向くとそこには餓鬼達がふきだまる、そんな世界もあるんだよ、と仏や先祖が悪い手本を見せているのにそこに埋没してしまうなんてなんて脆い精神学者。そう、たいていは本当は霊的に劣った世界がいかなるものかを理解させるために導かれたものだったのだ。それを普遍的なものと見るもよしだけどね。美徳という盲信が失わせたものを取り返そうとするがいいというマルキドサドの世界は恐ろしくも美しい。彼の特性だろう。本質に従順でない偽善者も落ちる。性善説であってもカルトの手管にかかれば全域ルサンチマンでそれは崩壊を導くものであるから。