固陋の原理


 固陋とは自分では思っていない人間が頑なにも人を固陋だと決め付けることが往々にしてあるが、高校の担任などは相対的に見て固陋の老獪だった。老獪に甘んじた滑稽な大人め。ああいう人種が教師やっているのが許せなかった。いづれ人の願望により凋落する運命にあろうが。(ただし死ぬまで凋落することがなければ勝ち組だと認めてもいい)。反対に愛される人間は人に幸福を願われるが、死ぬまで老獪に蝕まれていれば負け組みだ。あの担任は津川雅彦気取りだった。ジェスチャーといい、ギョッと開いた目つきといい、人の笑わせ方といい。単細胞だけどいい人でした。かれこれこういう風に自分を尊敬して、いつの日か思い出したときには涙して人々に語り継いで、頂きたい、という無理な要望さえ押し付けていなければ素直にいい人だと言えたかもしれない。それは数少ない美点すらスポイルしてしまうものだった。そんな願望を抱いているからほとんど全ての「我が」生徒に斜めから見られるのだ。高校生は知識はないけれど直観力はある。親を見るかのように教師を見ている。だからこそ、いかにも身勝手な頑固人間であってはならないのだ。
 津川雅彦の猿真似に気づいたのは伊丹十三監督の『スーパーの女』を見たときだった。もともと愉快でテンポのよい映画だけど、それにも乗せられて担任の津川雅彦の猿真似が見えたときには爆笑してしまった。うん、たしかに顔も似ているね、でも津川雅彦の真似をしても津川雅彦にはなれないのだよ?頭の良さそうな振る舞いをしつつも、ではなんでこんなに簡単な原理によるスマートさなんだろうという矛盾に似ている。俳優気取っても天才気取ってもその重みまでは出せない。重みというのは自己の根源に根付いたものじゃなければならないわけで、その自己の根源とは自己以外のなにものであってもならないでしょう?津川雅彦を真似ればそれに近づけるという願望すら無駄だ。津川雅彦は津川雅彦で彼でない人がどれほど津川雅彦を気取っても猿真似にしかならない。お前があの口調で美しい物事を語ったせいで、その全てが調和を欠いておぞましく変容してしまったじゃないか。
 この無理のあるエゴイズムを除いて柔軟にならなければこのいびつさは恒常的なものになってゆく。ゼスチュアを多用しても滅却はできず、肢体不安定なアイデンティティーから逃れ高ぶろうとする同一視も、一層的を得られなくなり、やがて自我と実質の乖離に苦しむ羽目になる。断言癖を遠ざけよう。断言をしないように気をつけようというのではなく、その態度、性癖から融和していこう。世界は一つの宗教のものではない。断定は精神を老人化させる。ほら見てるとほら。自分に都合の悪い箴言は滅却できるのに、テレビを見れば自分はその面白さがわかるという自尊心の混じった笑いをする。辛らつな現実を教えられるのは嫌なのに血液型の番組では別の血液型を笑いのめす。三つ子の魂がその生涯でどれほど大切なことか。エゴイズムや思考の癖を除くぐらいは楽なほうかもしれん。軌道はなかなか修正できないし、性質も簡単には変えられないから。

 『シンドラーのリスト』
 白黒で作成された90年代の映画。あるシーンで色がついている部分がある。音楽が流れる中、道をゆく女の子の赤い服が赤く彩られている。前にも後にもそのシーンだけ。それはそんな幼い子も一緒くたに銃殺されることになるのだろうことを意味している。
 シンドラーとは実在の人で、心優しい紳士であった。だから汽車の中から喉の渇きを訴えるユダヤ人たちにホースで水を与えた。「どうせガス室に運ばれて死ぬんだよ」と言われて、愛想笑いをしながら。
 この映画は高校のころレンタルで見た。その半年か一年後ぐらいにめざましテレビでシンドラーの妻が「彼は偽善者だ!」とほえていることが芸能ニュースで取り上げられていた。それを思いだすといやだ。「感動が台なしになっちゃうね」と司会の人が言っていた。世の中は独善的な善を説く者もいるが、無私なる善性を持つものもいる。慈悲がある人とない人がいて、ない人には卑屈にも偽善に映る。ゆえに善性を否定されて怒り、相手の評価を正当化してしまう場合もある。