− 囚われから離れる −

☆自己の歪みなんぞ認識できないものだ。ラーの鏡でもなければ。
たとえ 自分にとって心地よいと思っていても、他人にとって胸糞悪いものはやはり自分にとっても悪いものだ。マウスの嗅覚に頼って色を解読―
乖離思考 刪闍耶 無宗教への迎合 金魚のフン 観念学を離れる 善は悪徳ゆえ 醜いものこそが美しい と言わない 無駄という言葉も存在する 沽券への拘り そしりののしり 直霊欠如 不正直の洗脳論理 過剰な唯物論 過剰な唯心論 その有/無を離れる →かんながら 蛇ならじゃながら 八聖道 五戒・十戒・十重禁戒 コジコジ 隠し事 猜疑 感情による迎合 セクト化 見せしめの目頭 意味論に聞こえる怨み節 無駄という言葉も存在する 怒りと威勢は違う 妥協と諦観は違う ismの欠如 保険心理 無縁の慈悲 ヴェーダ みざるきかざるいわざる うんこしない 無理しない 癇癪球の爆発 北朝鮮 共産馬鹿 ヒスカルマ 下剋上 心霊恐怖 頭うち 未完聖人(ミカンセイジン) 屹度馬鹿 孤独 無感動 黄なめくじの黒体液 左巻きな根性悪 地獄も必要かと思う

人間はその瞬間時には5000語〜10000語ぐらいしか引き出せない。アクセスしたチャンネルが思念の形成基盤になり、その時間との積算が人生そのものになる。
和合の裏には隠された忍耐がある。怒り、マイナスの崩れた嘲笑、そういうものは癌なので不要。縮小化の方面へ。それらを現実とすると拡大する。現実として捉えたものが力をもつ。悪なる感情、自分が不快だと思う内容は、遠ざければ楽になる。方法はいくらでもあるから地道に探す。不具合な精神性を見つけては心経を唱えるなど。不浄なものとは癒着☯ฺしたくない。
(猿にスイカを食べさせるという脳医学の実験で、まずいスイカを食べさせると二度と振り向きもしなくなっただけではなく不快を示すようになった。その猿におけるおいしいスイカの認識は変形したようだ 脳細胞レベルで。書かれてた医学用語をメモっておけば詳しく検索できたけどまぁ不快感の度合いに応じて脳細胞は壊滅していくというものらしい。反対に睡眠などを得れば脳細胞は修復され、快いものを得れば感覚は澄んでいくことだろう。)(僕はDIARUMというタバコが添加物少なそうな自然な味で好きだったけどこの前メンソールの味がいつもと違った。その時点でDIARUMはもういいやって感じになった。タバコにより必ず脳みそは壊滅しているのに、タバコは嗜好される。アディクトになっているから。壊滅して拒むには主観的要素が必要になる。)

クリシュナムルティの思想の中心となる主題はあるがままの認識である。クリシュナムルティにとって「あるがまま」とは、実在、真理、神、愛、自由、無限、永遠、創造などと同義語である。その対極として闘争、矛盾、恐怖、欲望、習慣、努力、自我、観念などが挙げられる。ーWiki
心に念じたり減少させたりす。

感情を扱えるようになれば、感情的な感情名詞は減っていく。
修業を続ければ感情は円熟していく。修業相応のものになる。
囚われやすいから目がしらが立って、未だ囚われの強い感情論を扱うようになる。
たいていの独学が陥る井の中です。たぶん龍谷大より学歴の高い人に多い。

アジャンタだったかもしれないけれど、たしかボロブドゥル寺院の遺跡は、お釈迦様の精神の森を体現していて、外(カマダトゥ;俗界)はギザギザしており、中に入るにつれて丸みを帯びていく。人間は未熟なうちはよく諍いをしている。ギザギザした絵画が描かれている。次第に阿盧漢(至ったもの)に向かうにつれそれは調和する。少しずつギザギザが丸まっていく。濃密になっていく。中心にアルパダトゥ(無色界)がある。
信仰とは教条ではなく結果論の世界。あとでなにが障害だったか実感としてわかるというもの。悪いものに覆われたヴェールを穿くと本質的な個性が芽生え、感情は過渡特性に優れ、視界が広がる。神気が肉魂全体を螺旋のように伝導すると清清しい。あとになりてはじいるはないきのおんどかな。今までの自分は苦しんでいたのかぁと気づく。
(脱構築は常に軽く合理的であるべきなので心の慣性に任せる。意にもろもろの穢れを思いて心にもろもろの穢れを想わず[百体清浄]。霊格の低い宗教は世の中の人が「霊的には」不幸でなければ自身の幸福が成り立たない。だから人のかさぶたをはがす。あまり無為自然なやり方ではないね。)

[冷暖自知]
真理に意味があるのは具体的な目的にとって有用である場合のみ(プラグマティズム)
たとえば海外へ一人旅をする場合
・なんらかの成長を目的とするか
・売春を目的とするか
売春を目的とすればその分旅情は味わえなくなる。成長を目的としているのなら感性を曇らせるものにはなるべく囚われていないほうがよい。感性的・理性的な目的がないのなら売春をしていても特に関係ない。

「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。」(ブッダ)
純粋な人が聖書に触れ、神を求めようとすればそのうちペンテコステは訪れるだろうが、教団が狂っている場合、精霊はその人には近づけない。運が悪かったと思って孤りで進むべき。純粋な人が運良く聖人に出会えたら、彼は5年後には聖人になっている。




  








ALLURE HOMME SPORT rid a human of rats. It's mystic wisdom.