− かみさまはどんどん近づいてくる −

神様今日僕はとてもつまらないんです神様は僕たちがおいしいとかきれいとか喜ぶようにこの世界をおつくりになったのに僕だけが今日とてもつまらないんですつまらないんですよーと手を合わせて訴えていたら神はやっぱり僕のそばにいてくださった。僕は涙した。僕が悲しむと神様は逆に満たそうとしてくる。
なぜだろう。なぜ、バナナはおいしいのか、なぜハンバーグはジューシーなのか、なぜピアノの協和音が美しいのか、なぜ猫の動作は心をやさしくさせるか、なぜ魚の泳ぐ池は表面しか凍らないのか、なぜ空は透明に透き通ったブルーなのか、なぜそれを美しいと思うのか・・・ 「物理的な問題。人間は有史以前から自然科学の摂理に従って、そういう風にして進化してきたから。」と偶然性の上に必然を立てるのは科学的思考だ。でもそれが必然性の上に偶然をたてる、すなわち猫の動作も、グッピーの泳ぎも、ひまわりの顔の向きも、花の香りも、「全ては人間が喜ぶために何物かに用意されたものである。」とすると宗教的解釈ではあるがなぜかとてもユーフォニー。そういう風に発達してきたのなら、むしろ宗教のほうが科学的に思える。心の摂理の上に成り立たせた精神はとても朗らかで優しさに満ちており、とても自然に調和している。自然は人間を楽しませるために生きていて心に満ち溢れた存在だ。人間がきれいと言うと自然はよろこぶ。神もよろこぶ。おいしいと思えば食べ物は報われる。神も報われる。あるがとうと感謝するともっと与えようとしてくる。与えたくて仕方がないようだ。
世界は被造物。全てが人間に与えられたものである。神の子である人間がグッピーを性転換させたり植物を遺伝子操作して被造物の裸形を改造しても、人間は喜んでいるから神も喜ぶが、あまりいい感じには喜んでくれないだろうね。与えたおもちゃを分解してしまったらあ〜あという感じだね。
宗教的思考を発展させると無意識が見えてくる。その瞬間、聖書が比喩でないことがわかる。歴史に自己の内層の世界を見ることができるというより、歴史は必然の摂理であり、内層世界が現実化したものである。聖書の全ては内的に現実に起こる。神の摂理に則って受難を乗り越えれば過越祭で祝福される。その五日後には除酵祭にて確固たる自我が芽生え、神を求めるようになったらペンテコステで聖霊に満たされる。バプテスマではいにしえの時代に回帰するし、祈りを知れば常に心は整理される。神は無限のV愛Vを秘める。祈りを知ればホイミが覚わる。神がいてくれたことを知るとエスナになる。ハルマゲドンも走馬灯のようにして起こるもので神の国とは完全に聖霊に満たされた国に生きる自分のことだ。せっかく無意識の世界を生きていても、夢のようでよく覚えていないけれど、現実に沸き起こっているという現実が恐ろしい。夢ではないから現実に則ってちゃんと存在意識が羽ばたいている。万物の全てと調和している。あぁ神を知ると自然が美しい。神が死んだらつまらない。