たとえば学生の差別意識は学祭で顕在化する。
オールラウンド系のサークルには「なんだこいつら!顔面偏差値で大学分けろよ」という思想の持ち主が多く、文化系のサークルをどこまでも毛嫌いしている。文化系にはそういうのが馬鹿に映っているし、さらには文化系同士で優劣がある。別の大学に対する以上に同じ大学内で差別しあうというところに島国である日本の差別意識の様態を垣間見る。性的欲求の強い時期だから勝ち負けの問題が深刻。

・・・

なんてのは人に言わせて自分は関係ないみたいな新聞風の記述法。「顔面偏差値で大学分けろ」は批判的に書いているけれど自分の差別意識を煥発させた友達の言葉。僕は文化系の地味な顔はパーツさえ調和していればかわいいと思えるので顔面偏差値などというのは主観に過ぎないと思う。が、なにかもっと不平等感のない優劣観念がほしいものと思う。なので大学は知能指数で分けてほしい。という発想からMENSAが作られたのかな。いざ、そうなると、もったいぶった嫌味が多そう…。IQテストなんて練習すれば点数が上がるのでそれでは大学受験と同じかもしれない。知能なんてものはロゴスや形而上の記号などではなく、年齢、運動神経、容姿(美しいとか醜いではない)、振る舞いや動作など、外形にも顕れる。外形は人の網膜に映るものだが内層はもっと疑いようがないもので、倫理観、審美眼、趣味(良い悪いではない)、笑いのつぼや魂の指向性など、その人そのものになってしまう。相関しているというより全体は一つで、人間は複合的なたんぱく質なのである。知能「指数」ではなく、知能の質、トーン。趣味の近いものが集まれば、出会いの内容が厚くなる。結局おなじ趣味を持つ者どうしで集まるという、従来の流れで良いのかも知れない(一行目に戻る)。

以下現実離れした理想論。― 肉の質や魂の質を計測する機械ができてほしい ―
それによる計測が今のセンター試験に替わる(ただし遺伝子が傷ついていたり魂が傷ついていた場合、それは「傷ついたもの」として扱われる)。国立の入試はその測定値と従来どおりのペーパーテスト。計測に反発する家系や測定値の低かった人間は私立狙いになる。私立は従来どおり個性的な校風を維持する。
この計測器が出来ればスノッブはこの世界から消える。人はそんな方向に思考のエネルギーを割かずに済むようになる。100人中3番の人すら謙虚になってしまう。
有無も言わさぬその数値が、ヒエラルキーに於ける宗教的な議論を終了させる。優れた人間がわざわざそれを証明するかのようなイミフな行動に出ることもなくなるし、行動はより実質的になる。この測定のさらに優れた点は、肉の質や魂の質は常々変化に富むということ。食べ物、心の修養、運動、勉強。世の中にはモラハラやサイコパスのように自分のものを他人に流す者がいる。自分の荷物を他人に背負わせて社会的に優位に立つ者がいる。しかし魂は、人の苦悩を受け入れて、神様仏様の力を借りて供養すれば発達を促される。受け入れ損では終わらない。優れた人間は生まれつき優れている、その事実がフェアに扱われるのみならず、優れていても謙虚にならねば呪いで衰えるし、劣った人間の「権力へ抗うのだ」なんていう大義名分じみた叫びは魂の修養不足となる。修養さえすればいつでも下克上が可能。あの世は霊性によってヒエラルキーは明確になっている。死んで終わりとならない。
高校のありかたも変わるだろう。よき方面に発達するように、健康的な身体と健全な精神を築けるよう工夫を凝らすことになる。外面的な要素よりも内在的な思考が重んじられる。校則でタバコやアルコールを禁止する理由は、法律で禁じられているからとかスーパーエゴにかかるからという種類のものから、肉体や知能が劣化するからとか霊格が落ちるからという内容に落ち着くだろう。
芸術や宗教の地位も復興する。予備校はセンター相応の大学に行きたかった浪人生や上位私立大狙いの子のために機能。
センターの測定値は証明書として発行される。これで底辺の国立大に優秀な人が集まらないということもなくなる。優れた人材は安心して地元の国立大にも進学できるだろう。国立大は従来以上に地方色が強くなる。センターの測定値は履歴書に書けるので高卒で働きたい人は就職に適用さすこともできる(センター試験は10月に実施される、沖縄と九州は11月)。高校卒業までの半年はクラス内で差別感情が蟠ることがあるが霊格も肉の質も常に昇降するから一時的なものとして見なすよう促される。(証明書は1年間有効)。
(中略)様々な理由から、この先自給自足で国民が生活を維持することのできる土壌が必要になる。田舎は風土を活かして経済力を取り戻し、伝統は蘇る。大地自然は宗教的理由からのみならず、魂にとって必要だから大切にされる。