第六感、第六観、霊感につひて。リンク先:おみくじはなぜか連続する


霊感・第六観。証明、根據、説明、観測、詐欺、嘘、マコト、ある、なし。


1930年にパウリという物理学者によって予言されたニュートリノは、質量が観測できないほど小さく、原子のスカスカの構造をすり抜ける。でも弱い相互作用はあるらしい。相当弱いらしいけど。生物にはアストラル体、スピリチュアル体、コーザル体等と分類されて呼ばれる霊体のようなものがあるが、霊感は、それらの細かなスケールにおける観応や相互作用だと思われる。多くの心霊的な物事に関しての話は精神系の話ばかりになり、科学的であろうと霊的な事柄について語ると真性の電波として扱われるが、医療現場では意外とそういうものには肯定的で(あまりにオカルト染みているものは駄目だが)、中国四千年の歴史の遺産といえる気功の「気」の存在、気の流れる「経絡」程度なら多くの医師が認めているようだ(整膚やってる人が言っていた)(現代の共産中国は伝統とは異質な系統をもつ科学カルト国家なので気功で「気の実在」を認めようものなら迫害されるけど)。大学病院内にもオルタナティブメディシンと言われるジャンルの治療処も現在は数多く設置されている(副作用が少なく安全だからという理由もあるかもしれないが)。

、辞書にて調べてみると、「霊的なものを感ずる不思議な気持ち。 インスピレーション。神仏の不思議な感応。霊応。」(広辞苑) 等と書いてある。
この霊感というものには東西で違いがあると思われる。英語では霊感は「インスピレーション」であるが、日本語的な意味の霊感は気などの作用によって体感的に感じるものだというニュアンスが強い。(それは日本人の皮膚感が繊細だからだろう。西洋人は東洋人ほど温感がないようで旅行時には結構寒いと感じるホテルでも白人は平気で半袖薄着で寛いでいる。単にタフなだけかもしれないが)。
日本語のほうの霊感の「感度」については、最大で五感相応の強さにはなると思う。平常時の五感を超えた霊感とか悟りはガンジャによる覚醒作用だろう。その逆に、「霊感」と呼んでもよい最低レベルの感度としてはマイナスイオン発生器やラジウム人工鉱石の有無を識別できる程度はほしい。個人の霊感の強さには時間軸で多少の起伏こそあれ、霊感が『ある時』と『ない時』が頻繁に著しく交差したりはしない。「幼い頃は霊感があった」のは本当かもしれないが、一度や二度の霊感めいた体験は「直感」とか「幻覚」の可能性が高い。その種の作用が霊性によってもたらされている場合は形而上的(第六感とかインスピレーション的)なものであり、宗教的な指南にもなり、それを絵画や音楽に具現化する技量のある人の手にかかれば芸術作品にもなる。
西洋的な意味の霊感も東洋的な意味の霊感も、それを与える「霊性」は共通項であっても、それを受け止める肉体の違いによって、知覚作用の現われ方や言語的な意味合いに違いが生じてくる。

第六感というのは五感以外のものの総称か。この霊感やら第六感的なものは、その内実、種類が豊富であり細分化しようと思えば無限に出来るが、そのすべては万民に共通して観測できる種の反応ではないゆえに上位概念で総称して呼ぶのが一般的である。一言、霊感とか第六感と言ってもそれが具体的に何を表すのかわからない。概してそれが感覚を伴う場合は表層意識に相互作用(通様相的にも)している必要があり(超感覚)、妄想ではなく事実であるのなら何らかの力や運動が介在しているはずである。でもこの霊感やら第六感は、五感に伝ってくるものとはいえ、大本は五感的な物理ではないのが難しい。現状での科学的な解明はあきらめたほうがよい。(原子1つの核力と斥力の及ぶ範囲を甲子園とすると原子核の1つのサイズは石ころ1つ程度らしいがその)原子核を構成している素粒子の仕組みがわかっていない。― また、痛いとか美味しいというのは専用のレセプターによるもので五感に物理的に作用するものであり (ベルクソンの『時間と自由』に引用されていた研究によると、高い温度と低い温度を感じる細胞は違うらしい。高い音と低い音でも同じ。明暗も別のもの。 痛覚においても大きな痛覚のうちに小さな痛覚が含まれているのではなく、それらみな個別的である〔Stratum〕ようだ。この哲学によると八百万の神さま達がすごい名前してるのもわかる。 宇麻志阿斯訶備比古遅神。天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命。名前を一つの全體〔概念〕に述す前に、漢字一つ一つで吟味できる)、感情は脳内麻薬等さまざまな物理的運動により知覚する。霊感第六感は霊性や霊体の働きによって起じているものとしても、その霊性とか霊体というものは恐らく素粒子が解明できない限り分子高分子にどのように作用しているか検証できない。

一般的に霊感やインスピレーションは、自然に発生する。より原始的なあらはれと見ることができる。無意識から起してくる知覚もあるがそれは高度だ。想像力も必要とする。中には想像力が豊かで創造が瞬間的であるゆえに霊視する事の出来る人もいるだろう。そういう人がいるゆえに「霊感がある」というと「霊感があると何が見える?」となるが、霊感はフォトンが網膜に当たって「見える」ものではないので、その見える種の霊感は大脳の活動量の多い直覚的な働きだろう。ただ霊的存在の その形象まで 素直に自然な姿で觀じられているのかは不明。(脱線…そのようなの霊感やインスピレーションを「超現実的な脳の転回による芸術家の恍惚のような作用のように 己の人為を超越したものとして感じるのだ」と断定する機械論もある。それも一理あるが、それだけではないだろう。そこにあるエネルギーが自分の意識のエネルギーよりも強い場合もある。現状の科学にて現象の可能性を限定する人が多いが、老化の原因にも放射線や活性酸素等によるDNAの劣化や死の遺伝子による命令などなどいろいろ提唱されているし、どれが正しいというわけではなくどれも正しい。現象は一つの定義に断定できるものではない。)
僕は視覚的な霊体験は三度しかない(三つ目が思い出せない)。共に小学生のときで下痢になるのがすごくいやなほどに確かな脳みそで生きていた少年期のものである。視覚で捉えたときは霊感では感応していなかった。肉体の感覚が強かったから、意識されていないし鍛えられていない霊感側はかき消されていただけかもしれないが(たとえば濃い味の総菜のあとに白米を食ってもごはんのおいしい味は感じられないように)。上記に述べたように日本語的・東洋的な霊感は脳みその感度に比例するし、感受性とか創造力は年齢と共に衰える。二十歳を超えたらもはやイメージ化できるほど脳みそが俊足じゃないので(一般的には)、せいぜい気感として感じられる程度になるのだろう。しかし「すべては脳内現象に過ぎない」では行き詰る。催眠誘導によって幽体離脱させて別室の様子を見に逝かせると、誰もいない別室の赤外線センサーが反応し、サーモグラフィーに温度反応が出たとか、 被験者は別室に置いてある物体(サッカーボール)を言い当てた、などなどの検証をオッカムするしかなくなる。「脳みそは媒体に過ぎない」。 物理学的な観測ではなく医学的な検証に証明の基準を下げれば良い。気功では他者に気が流せる。浄霊が出来るのが修行者で、その人の霊体の在り様など診断できるのが霊覚者だと考えるのが順当である。 それゆえ真贋の区別が難しいのである。どんなエリートでも騙される。騙されてなんぼ。仕方ない。唯物論・霊魂不滅それぞれに根拠があるが、どちらかに傾倒するではなく、多くの概念を地道にジンテーゼし、ファンダメンタリズムに陥るではなく対機説法を理解できるのが賢人のあり方だと思う。
霊体験の一つ目は三年生のころのこと。ママの隣で寝ていた夜3時、ふと目が醒めて開いている東の引き戸から入って通過して西に向かって、おばあさんの寝ている部屋に入ってそこで左に移動し、 また東のほうに引き戻したのか南側の部屋を通過していった。顔をした人魂がメラメラしながら。意識がないのか、普通に迷子になっているみたいだった。もう片方は個人的な事なので言わないでいいか。 霊障ではない。 この二度の霊体験霊性が怨念を帯びていなかったからか全く怖くなかった。
怖いと感じるのはに負の感情があるからだと思う。相手が人でも、自分に対する「怒り」や「思い通りにならないものを思い通りにしようとする我執」があると空気で「恐怖」とか「障り」を感じる。金縛りにあって恐怖を感じる時、生き霊であれ死霊であれ、そこには悪感情をもった霊魂がいる (雑霊現象)。 中二の秋、僕の部屋に太鼓の音みたいなのをあげて北の方から何か入ってきたのは僕が中2病だったからだろう。金縛りに遭ったことが新鮮で次の日学校で「意表をついて腰を動かしたら解けた」とか言いふらかしていたけど。また、恐怖を感じるのは自分の霊体(生命そのもの)が傷つくからであろう。人は長生きしたい。
…どうでもいいけど、霊について書くと頼ってくる。今日はちょっと耳がさえすぎているな。いやなんでもない。



― 後 記 ―


今の自分には五感相応の霊感があり(感受能力を鍛えてたから){回数的には過去5〜6年に3000回〜5000回ぐらい感応しています(2013年現在)。もう「個人的には」サンプル数足りてる。 祈り、祝詞、お経を除いた現象(表層意識に上ってきたもの全般)も加えると100000〜500000回ぐらいはあるかな。でも統合失調症ではないとしても現実と非現実の区別がつかない場合があるので証明にはならない。おみくじの吉凶はなぜか連続するけど。その確率を計算してビビった人も多いだろう}、神社と仏閣の神様仏様の違いは目隠しで区別がつく。視覚的な霊体験も増えた。霊感は重力のように不可解な運動エネルギーに因るものだと思うが、重力のように一種類の感覚ではない。個性とか質感がある。 味覚にもとんこつという味があり塩という味があって区別できるが(鼻をつまんだら難しいけど)、それと同じように霊性感応でも~社仏閣の霊性はブラインドで区別できる。 (気感で感じる、神社仏閣の二者択一なら霊感で判断できる ということは相互作用の結果なんらかの変化を観測可能になってることらしいけど、 そのなんらかの変化度が知覚を満たすほどに強いから知覚できるってことでしょうね。要するに霊性も物理学の用法でいうなら「物質」のようです) (霊感を感じる脳が異質なわけではなく縁とか場の相互作用に強度に違いがあるのだと思う。脳よりは全身全霊で感じるから。だから 信仰したり修行すれば誰にでもわかると言われる。)
この手の話はあまりに信じられていないので(本当は信じるではなく経験してしまえばいい)、説明すれば語調が強くなる傾向にあり、 普通は目に捉えられないから比喩表現も仰々しくなるものである。霊性が自然なものにとっては、マジレスはゴミである。それは感性を退色させる。ポエジーや電波とは相反則して相容れない。

霊感とは何か…霊とは何か。まとめ。経絡を流れるとかヨガのプラーナとか(細分化すれば幾らでも出てくるけど)、そういうものの総称を「」と仮定すると、それを知覚するものを「霊感」と呼ぶ。観測したと言う人が嘘をついておらず、他の物理現象との混同も無いのなら、その霊による相互作用はその人にとっては確かに存在する。診断要素を積み重ねたうえ、それが譫妄でないのなら、なんらかの根拠がある。ただ現時点では人体に観測機を応用できる要素がない。医学的な検証止まりである。肯定も否定もない。霊感とは単なる異常値である。最も誠実に科学を使おうとしたらせいぜいこの位の事しか言えないようだ。
神道の先生が言うにはプラーナは本来は知覚出来ないもののようだ。「知覚できないほど細かい」とか言ってた(先生はいつも僕の意識をダイレクトに読んで話していたけど、解らないことは神様におうかがいをしていた。それはプラーナのレベルだからかもしれない)。は「気づく」とか「気のせい」とか言われるように今や便利な上位概念になってるけど、の多くは知覚できるもので、日本語が一般的に示す「霊感」の多くは気のレベルになるのかもしれない。僕は神社仏閣では「気が済む」まで心身を淨化して帰るけどそれは気のレベルでの話で、実際にはもっと高度な霊的能力は沢山あるのかもしれない。(お藥師様のお姿が轟轟と輝いたときの光や法隆寺の拝殿からフローしてきた緑色のアウラはだったのかなプラーナに近いものだったのかな。その時は淨化力も強烈だったけどプラーナの水準まで意識がかすめていたから色彩や光が伴っていたのかも?)。また、死後の肉体の霊気は濃厚だけど、火葬すると一気に消える。そこで消えるのは気とか肉体寄りの霊性で、時間を跨ぐニュートリノのようなスケールの霊性(魂?)になると、永遠と言われるほどに長い間 残っているのかもしれない。


神のいる 神のいない 科学的根拠 科学的証明 科学的検証 神がいる 神がいない 証明 根拠 解釈


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神や霊魂の実在/非実在についてはあまり物理思考に囚われず、 あ る と し て も と く に な い も の と し て 行動しているのがよいようだ。(修行者でも信仰者でもない限り)