「無償の愛」における自己犠牲とは結果論で人為ではない。太陽とか植物は無償だろう。天照大御神とか可美葦牙彦舅尊とか。富士山からはものすごいエナジーが漂う。それを感じられるようになってきた。原因は不明。浅間大社に行く途中、電車の中での出来事。お札をもっていたからかもしれない。
墓場などでたまにうよつく目に見える霊は生前の生活が悪く、人に憑いては欲望や怒りの執着を催すみたいだが、そういう依然として透明でない穢れの霊にたいしてはこちらが人為的な何かするよりは太陽に当たらせておくほうがいい。地球の自浄作用も月の光も自然の慣性も無料。無為自然のうちに無償の愛がある。そのうち白然になる。
本当に囚われのなくなった人は、囚われていると思われてもよいと思っている。虚無の固執だとレッテルを貼られてもよいと思っている。人が信仰生活に囚われていると表向きで悪いことをあえて見せるなどの対機説法ができる。しかもその意向を逆手にとり悪い評判を広められても平然としている。ほとんどの人間が利己的なヒエラルキーで下を見下ろすばかりなのは、動物だから仕方のないことでしょう。

Free size効果、Brand効果、インプリンティング。人は先入観にも騙されやすいが、それを極端に嫌う潔癖な批評もまた誤る。どちらにせよ、観念の所作には無自覚なのだから。変な意気を設け、その慣性に軌道を描かれたものにインプリントされている。また潤滑にも乏しくなる。しかしなぜ潔癖になる必要があるのか。それはフーコー的な権威によるところだろうか。しかし権威に弱い者ほどインプリンティングされやすい事実もまた否定できまい。権威に弱い者ほど権威を批判する傾向にあるのはおもしろい自己矛盾である。そういう人が正確な批評をするのにてまどうのはわかる気がする。目頭が立ちやすいのは自分の心魂がゆらぐからだろうが、それは紆余曲折して論理性を地平線の向こうまで求めるA型的な態度となって現れてくることだろう。
たまに自己啓発セミナー系の人種にみられる態度だけど、やたらと世にたいして批判的で、嘲笑的な人がいる。これは心理学では妄想性のパーソナリティというのらしい。妄想性人格とは過敏性や猜疑心の性格で、神仏が見える人格のことではない(譫妄や幻覚なら境界性か分裂病質)。過敏性と猜疑心により比喩やおちょくりを解せない柔軟性のない人格となる。人格障害は精神病とは違い脳に器質性の障害があるわけではなく、その非社会的なパーソナリティを自覚できるパーソナリティだが、自覚できるゆえ治そうとは思わない、どころかそれ自体には苦しみを伴わないゆえ普遍的だと思っているのが普通(因果観も欺瞞的)。妄想性ではノモスを現実とする傾向が強い。ゆえにそのパーソナリティには融通が効かなくなる。その曲げられない思想も所詮は無明であることを想う必要がある。宗教における妄想性の現れとしては、信じる系では排他性、人の思想に目頭が立ち易いのは自分の信じるものに固執しているからでもある。好きを作れば嫌いもできる。慈しめば、寛容がうまれる。禅問答系では法我執などが挙げられる。オーディオショップでは部外者の品評を見下ろす常態など、一種の信仰形態に問題があり、そこに固執する部位がその病巣を孕んでいる。部外者しかいないことを知るべきだろう。いや、同じ宗教の内部の人間すら部外者なのだよ。あるのは共同幻想で。さてエピステーメとはどこにあるのでしょう。音は現象として共通しているが、同じ音をその現場で聴いても同じ音を聴いていることにはならないことがわかれば、もう少し普遍的な哲学も理解できるだろう。これには特殊な感性が必要だが。さて特殊な感性があるという人は、具体的な霊感などあるでしょうか。神話を信じているのでしょうか。この論理展開がわからないのなら、哲学など殆ど何も知らないだろう。あるいは理解されていないかセンスがない。批評のアウラが音のアウラを量として超えた場合、批評のほうが共通しやすい性質がある。それはフリーサイズ効果ではなくアウラとして。批評より計測を妄信する人間は、おそらくユングやベルグソンのことなど理解できない。いや批評すら要らない。人の言葉を聞かずともシンクロニシティなどいくらでも起きている。八卦。シンクロニシティかそうでないかは、時間を経るかしないとわからないが、霊感のなさは感覚の浅さ、鈍感さである。もちろんその鈍感さも、流されない普遍性には必要ではあるが。さて、インプリンティングとシンクロニシティ、正確に区別はつくだろうか。シンクロニシティなインプリンティングでしょうか、インプリンティングなシンクロニシティでしょうか。

宗教は密教的要素や神仏に感応することがなければまったくおもしろくもなんともないもので、それなら音楽やスポーツのほうが有意義だと思うのだけどしかし感応力が出てくると霊的効果ばかりを求めるようにもなる。ほとんどのオカルト者には小林秀雄な態度が見受けられない。美意識がおろそかにされすぎているというか。おもしろみに深さが足りない。低い次元での正しいことなど、馬鹿にでも述べられる。もののあはれの道ほど難解なものもなかろうけど、その霊性を醸してるものの精神を軽んじてはいけない。なんとか理解しようと努力しても理解できない美しいこころを持ち合わせているんだから、理解するのに一生かかっても仕方ない。

思想の真贋は、自分が基準になる。病んでいる人間は世の中の病んでいるものしか見えないというのが現状で、普通の子供はそれを見て社会ってそんなもんなんだ、と複雑に思う。
人は自分を真理とするので「霊感は、魂は、脳の中に沸く幻想」と言われれば魂も霊感もない普通の人は「よかった、自分はまともだ」と自信につなげ、被暗示的な人はそれを信仰とし、虚しい人は「自分は世の中の常識、思い込みの規定を疑えている」とさらに自信につなげる。霊感のある人の場合、それが謙虚なパーソナリティなら「そうなの・・・」しゅん、と素直に悲しみ、ダンテとか手塚治虫とかのMENSAになれば「君たちは未だ古代の思想を無価にしているのですね、その安易なルポルタージュによって」と見下ろすか「まぁ、そんなもんでしょう」と有無を介さない。

神仏の精神は、「究極でも理想でもなく、現実そのような霊性をしている」というもの。霊性に感応しなければなかなか信じられまいと思う。特に人間は、自分に近い思想や悪い行為は信じ易いが、自分以外にある良いものは信じ憎い。キリストの話にも通じるけど、心理学の実験でも電気ショックを与える痛ましい映像を見せると「その人が悪い人だから」という感想を述べるのが大多数になる。それは防衛規制。ニーチェ的にはキリストはルサンチを救う存在であったけど、ルサンチ(滅びるもの)を救うキリストに民衆はルサンチする(それを滅ぼす)というカタルシス構造があるんだろうか。新約には。

人を攻撃しようとして書けば、まぁ反撃されて攻撃するのが常だけど、人を不快にさせない、政治的な動機で一部を否定したりしない精神こそが高邁で、それは神仏のようにすべてを覆うもの。どれほど攻撃にたいして泰然自若と構えようと、それは不快だからこそであり、攻撃する人が攻撃されればさらに崇拝を求めることだろう。不足した尊敬の埋め合わせに。しかし攻撃される不快は止どまる所を知らない。根本的に何かが違っている。攻撃されることがもしも不快なら、どうすれば攻撃をせずに済むか、悪い輪廻から脱出できるかを考えるのが妥当だろう。ルサンチに歯止めが効かず、毀損的定義に納得するしか能が無いのであれば、比例して掲示板の規約は膨大にならなければならない。人に何を云われてもいい人はこころに偽装のない人で、人をそのままに評価できる。構えるものには必ず異様な弱点がある。犯罪者が警官を恐れているように。(犯罪ならまだわかりやすいだろう。それがもしも文化への恐れであったのなら、まさかそれはないであろうが、感性の劣性を無意識に目の当たりにしてしまうような現状であったのなら、創造力を滅ぼす行いをするであろう。)
偽装というのはラ・ロッシュフコー的なdeguiseのニュアンス。心の虚しいショップがよくやる「こんなに喜びの声を戴いてます」系の、広告に見せかけた"見せびらかし"のような行為。あれを見るとふつうに購買意欲を無くすので、営業が目的ではないだろう。
自分の精神が他の精神から被る作用は、無自性のようにパラドクシカル。愛に飢えている人ほど愛に構えるもので、愛を与えられずルサンチが肥大すると、そのような異様な形になってあらわれてくる。無意識が慣性をもっているので。しかし何も求めていない美にこそもっとも愛情が注がれるという現実は哀しみのパラドックス。もっとも清らかな魂をした子供が愛される。大人になってからは愛されないので子供のうちに愛されなかった人は不足しているものを神仏に与えてもらい、幼児教育の本を立ち読みましょう。子供は大好きっ子で育てるのが理想である。甘えられるだけ甘えさせると、知能もよく育つし簡単に親離れをするらしい。大人になってからもそんな行為をする必要がないでしょう。信仰を否定されるとヒス起こす親に子育てはむずかしい。ふつう子どもには天邪鬼になる時期がくるものだけど思想に固まった親はそれに耐えられないから、子どもは一層天邪鬼になる。素直な子どもはとうに天邪鬼に飽きちゃったわけで素直になりなさいといわれたから素直になっているわけではない。ほんと幼児教育の良本はパラドクシカルです。買えばよかった。

もうなにもかもに飽きちゃった。飽きちゃったという感覚が自然に出てこない人は淘汰されるべきものが腐るだろう。飽きることにより次へ進む。今の時代、定理や我見に凝り固まった被暗示的な人間に溢れているので愛者は大変です。霊感について何らか思念を抱いた場合、たいていそれについて感情的不具合を抱き罵るか、それに憧れてそれを得ようとするかのどちらかになる。でも案外すぐに身につくもので、欲しいとも得られるとも思ってなかった僕は1年ぐらいで感応するようになった。そういう能力は自分には無理だと思っていたけど。勿論それまでの苦しみも大きかったけど、今は霊感は諸刃だと思ってる。神社仏閣に行けば神仏の力で浄化されるけども、すぐに人が持ってるやつを負ったりする。むかついて浄化して、その繰り返しになる。そういえば先祖を大切にするといいとか、先祖の因縁がどうこうという場合があるけど、それは時間感覚が違うので、今に舞い降りているということだろうな。孫の孫の孫の世代の今現在でも、そいつと同じ匂いがすると、「あいつ」だと思ってとり憑く。でももしそういうことがあっても、せっかくだから成仏してあげよう。除霊では根本的な解決にはならない。さらに孫の孫の孫に憑くだけで。正直誰にでもできる。どうせなら、その霊性を楽しませてあげたり、理解してあげられるよう、心をいつも清らかにほがらかに、いいこと楽しいこと、たくさん集めておこう。そしていつも謝ることも、感謝することもできるようにしておく。
どの世界でもそうだけど、能力主義なんてゴロゴロいる。あるオーディオショップでもそうですね。述べてる内容は信仰なんですけどね。従うなら本当に倫理的に高いものがいいんだけど、無知を知る指導霊ほど、能力主義とか変にカリスマっている奴のところには寄って来ない。挑発して怨念をかましてくるような心霊は、すべて不浄仏。本物ならどんな害毒な感情を抱いても、それすら慈悲で覆い返してしまう。優しいメンタルをしている。だから信じるに値するのだ。どの存在も自分を信じろ信じろというけど。独学で学んでもノイローゼにさせられることも多いこの世界。お寺に行って縁を深めないと、ヤバいときに助けが来ない。不浄なやつを少しでも浄化しようという意志(菩提心)に応じた力しか得られないもの。

解釈を拒絶している

投影がネガティブなところから来ている場合
自律神経が失調しているか人格障害か霊障
現実を指摘されたとき、もしもそれが本当に現実の場合、正当化の方式によって人格が歪むかより強い霊障にとりつかれる
ふつうは指摘しない

霊障は振動数が低いか不協和している
仏からみれば信者は霊障だけどそれも仕事
仕事されているから霊性の高いものを信仰する人は霊性が高くなる

という現象が(私怨ではなく現実そのものが)気に食わないのならその人は霊障持ちだろう


そうしたいからそうしている脱文学…それを読めるか読めないかで詩才の深度は測れる。


真理か思い込みかには、そのすべてがシニフィエであれ、段階がある。思い込みの神ではその神威を理解することも通底する構成要素を見出すこともないが、人間のうちにある神聖の意識が神聖であるほどにそれとは合一するもの。これが循環論法に区切りをつける交点となる。交点がないので循環論法なのである。

霊性にはサーカディアンリズムがあるのでキリストもブッダも高天原の神も、自分が最高に霊性が高くなったときにしか来ないが、来たとしても、まだここが甘い、この考え方が薄い、という忠告をしにくるぐらいである。相手が本当によくなることを、先々までの視点で見抜いている。教授も特に文学部の教授は、教育の虎の巻である『エミール』を読んでいるので、自然精神を重んじている。神仏は気が遠くなるほど気が長いので、人が気づくのを待っているのみである。一方的で過剰な思想に鉢合わせたら、淡さでかき消す(ノイズキャンセリング)ことのできるぐらいの人が、聖人と思う。世の中、未完聖人がほとんどで、現実、本堂の外にはそういう霊性が多い。
逆にカルトになると本尊に近づくほどおかしな霊性に満ちているので、人の心の中が汚れていることをよく話す。霊性の清らかなところほど、近づくほどに清らかな力に漲っていて、その影響で心の中は誰もが美しく、その淡いヌースはとても儚いもの、となる。
自分と他人との間にはそれ以上は入り込めない境界があって、それ以上に踏み込むと、などと得意げに語る宗教は、内的にそのような基底部を持ち併せているのだろう。世界は心の映し絵。心がおかしい人は、付随する打算がいびつな形状になり、虚勢を張った趣味(矛)で心にしきい(盾)を設ける。その形状を形状のままには晒せなくなり、腐心してゆくという路線を辿り、それが常態となる。その縁に引き寄せられる人は、やはりそのような常態で生きていたのだろう。宗教初心者はえてして権威とするもの(信じるもの)の程度が低い。〔霊性診断

頭のよくなる家で検索するとわかるけど、セミナー系はたいてい学歴がない。もちろん学歴ないこと自体はどうでもよい。劣等性を翻した反社会性定義に走りやすいので、その場合には悪い。あんなものに嵌る時点で、発達環境からして帰属意識に空洞があると思われる。それが群化することにより排他的な宗教が発生することになる。自己啓発本も宗教となんら変わりはないけど、宗とする教えを選ぶ審美眼についてはあまりに省みられていないものだなぁ。セミナーのやっていることの反対が、かんながら。主觀的な人のほうが学歴が案外高くて、こんな奴が、と思う経験も多いけど、その不具合は「思い込みほど恐ろしいものはない」と言う狷介と同列の類といえる。学歴というのは、親と世の中を信じる環境で育っているから迷いのない、純粋で健康的な判断力の所産でしょう。それを認められない人間は、残念ながらその性情までの知性かな。精神医学の実験では、まずいスイカを食わせた猿は、物理的なレベルで脳細胞が壊滅していた。ゆえにスイカを拒絶した反応を見せるようになる。そもそもニュートラルなんてないのだよ。ソシュール的には。

本を読まない人は、活字の中に住んでいてもうんぬん、と読書といふものを否定するが、そのわりに哲学が浅薄で霊性が粗いのは紛れもない事実で、激昂しやすい。もちろん読書するに、知識の構築へ慣性をもつその動機〔ライプニッツの「力」〕にもよりけりではあるけど。プライドの高い人は少しでも劣等性を認識するのが嫌だ。プライドの高さはほとんど劣等性と等価であるのに。色不異空の空がわかってない。
アキュフェーズの人は、とてもアトモスフィアがよかった。ルサンチなど必要がないのだろう。TADの人は人懐っこく、愉快な性格で、ああいう人を宣長は真人と言ったろう。地位は人格を作るというので、地位はたいせつです。大阪人は大阪人としての突っ込みを飛ばすけどワークショップ系の人はその手が本気ですからね。(相手を転覆さすチャンスをうかがっている)。本格的なる態度で内なるテロルをカムフラージュしても無駄なのに。

YG Acousticsのスピーカーはヴォイシングなしで造られている。これは集合無意識に入るタンノイとは正反対で、その設計姿勢はまさしくデカルトとスピノザの違いである。デカルトは想像で数学をする。しかしスピノザは想像的なものは一切拒絶し、物理的な推論を心がけた。音響設計においても、生の音楽を知らないものはオーディオを造れないなどと一方の態度のみを真理とする人間は、スピノザのトップダウンを知らないだろう。知っても感情に騙されて理解できないだろう。その中身が右左翼のごとき自称思想家であるのなら。
情動を感情とか感動に取り違えた人間は、その衝動性で音楽を知ったつもりになっていることが往々にあるから、「メーカーの人間は生の音楽を知らない」などと堂々と一方的な定義をする。そんな「信じたいことを感情的に信じる」縁では低い信仰にかむれやすい。オーディオに精通した者が述べるその内容は正しくとも、広告や他の店を批判する時に掲げる大義名分のほうには、なかなか欺瞞の見抜ける人は少ない。感情的に信じてしまう縁ゆえに。日本には日本的な感性や自然観を世界屈指のものとしたいだけの安易な国粋主義も同様。特に帰属意識を無くしている人に多いが、武満徹の弦楽のためのレクイエムが理解できないのならそのプロパガンダは嘘になるでしょう。武満徹は、音楽を音符に構成するのではなく、そこに浮遊しているものを、そのままに投影した。霊媒も、天才の手にかかると芸術化されるものだ。ちなみに思い込みか否かの規定には、霊感の有無(霊性のめざめ)がとりわけ重要になることは、万民被洗脳論のとおり。心は量子的に仮定される様々な粒子により、振動の波形をもっているから、意識は霊性の一部。意識内容は霊性として読むことができる。音響ではなく音楽として。

人が醜い音のオーディオを使っている現実を示したいという願望のみでは論理の普遍性は得られない。
「ポータブルでは私は音楽の感動はできません」 と語ればその教義から離れられないようになる。教祖めいて一元的価値を提示し、それに沿わせて成長を自業自得に止めてしまうのも馬鹿げたこと。BlackMatterでも研究すればポータブルでも感動できる物理的理由はいくらでもあろうに。敷衍してるんですよ、ヌース振動は。心理学的にも「記憶により音は補正される」というのなら、悪い音のほうが記憶による補正が多くなる。ゆえに情報量の浅い音楽も深いという論理も生じるわけだけど、それについては無視している。まぁこれは小学生の感受性にしか無理だろうけど、ファミコン世代ならドラクエの世界がどれほど煌いていたかわかるだろう。あのドットしか見えねーレトロな空間の中に、一体なにがあったのか?でも今からやれといわれてもなんの感動もないかもしれない。ひとつひとつの台詞も、宗教をやってればなかなか深いと思えるものだけど、解釈の深さしか生じえないのが大人の悲しい現実でしょうか。

使用環境とか耳の慣れとか、20代には必要のないイカサマ論理性が多すぎる。それは教義だろう。
右翼左翼すべてイデオロギーであるが、その教義にまみれている人間は他者の感性優れた感想を排斥しようと、「思い込みほど恐ろしいものはない」と主張しだす始末。そのロゴスが洗練されておらず普遍的でないものだから、アルケイーダ、オウム、北朝鮮として機能しだす。その霊性はヤクザ絡みなのでしょう。ヤクザも神棚を祀っているので。

PAがあるのに選挙活動でマイクで大声で叫ぶ政治家には入れないことにしてる。道具があるのにそれをうまく用いることができないで、やらなくてもいいことまでやってくれそうだから。どうでもいい真面目さを発揮して社会の足を引っ張る種族のように。あたまの遅れた人の思い込みや思想は、社会の足を引っ張るから不必要である。いや正直いうと政治家も企業家ももともとB層が狙いだからいいんですよ。

念にも指向性の問題がある。でも相手への批評が実際のその人と乖離している場合、その誤解の念はその人を引き付けない。とはいえその信仰が強いヌースを形成してゆけばその地場からの影響でその人は実際そのとおりになるだろう。だからそのとおりだ。
世界は心の映し絵で人はすべて自分の精神ばかりを基準としているので、その影響を受けずに自分の行く道を行きたい場合は、正しい信仰と強い信念をもつことが必要である。人が低次元なものを信じている場合、その低次元の具合を指摘するよりも高次元を向いているほうがよい。悪い影響があっても良いもので覆える。自身が改善するか相手に懺悔するのが生き霊を消すもっとも効率的な方法だけど。生き霊があっても人生には蛇足なんですよ。

本来は何事も批判しないほうが、傷つけ合いをせずに済むし、悦に入ると精神は汚れるので、仏教的にも不自尊毀他戒が勧められるのだけど、全体の怨念を今より減らすこと、最大多数の最大幸福で考えるのなら、そこで認知的不協和として溜まっているものを表現することのできる人がもっとも相応しい形に表現することは、結果として多くの癒し(カタルシス)となり、人々の怨念が永遠とした生き霊とならずに済むことになるので徳になる場合もある。怨念は苦しいものである。相手の不幸が最終的な幸福になるが、それまでは苦しむことになる。相手もまた、生き霊の絶対量に応じた不幸を免れ得ない。

功利主義で考えるなら、身内の幸福を願いつつ他を滅ぼすばかりの±0よりも、かるく祈ってマイナスを生み出さない人のほうが偉い。世の中の本当によいことを願うなら、誰のことも毀損することはないだろう。怨恨にたやすく呑まれる自己愛性や妄想性のように訴え事ばかりするよりも、悦に入りながらも「その程度の不浄」は慈愛で覆い返すほうが上である。有神論より無論者を多く育むカルトは、神から見ても、功利的に考えても、マイナスである。
セミナー系によく見られる「みなさまの喜びの笑顔がうれしいので」・・・これ自体はいいことだけどそういう人物にかぎって他の思想を毀損するのは不思議な自己矛盾で。どれほど大義を述べても、利己感情の肯定を偽装する論法ならば、それは大人の欺瞞。それを見た人は良心を疑うようになる。人は惡には導かれやすい。それを簡単に導かれ、人を惡の発想に導く。自分の信仰を肯定し、他を批判するのであれば批判されてるのも必然でしょう。ポータブルでは感動できないわりに、言葉と他人の思想にはよく反応するところもまた自己矛盾。
環境破壊に心を痛めるのは誰にでもできるが、環境破壊に心を痛めている態度をあえて示せばそれを見た純粋な子供は不快を催すだろう。本当に愛のある人は、愛を口にすることはない。第六觀がある人は、感謝の念があればそれは自動的に運搬されることもわかっているだろう。口先感謝や大義名分も悉く見抜ける。知的遊戯と言われようが、妄想、物理学的知識のなさ、推論と根拠の違いが明確でないといわれようが、もともとが現象とはウィトゲンシュタインなのだから、第六觀を第六觀だと五感が区別しているし、それを過言することもない。ふつうに自分の第六觀を信じてるだろう。霊性の低い側面を指摘されて感情的になるうちは、無意識に敷衍している矛盾を恐れている証拠でしょう。矛盾した行為をなくせばそれは消えるもの。

機械は自然ほど複雑ではないが記号ほど単純じゃないので、スピーカーとアンプ間にも相性はある。パソコンにすらパーツごとの相性問題がある。動く動かないのみでなく気持ちよく動く〜すぐ壊れるまでの段階も当然ある。平均律で。感性のレベルになれば尚更のこと。科学ですべて解明できるとか思ってる測定馬鹿はどうにかしたいくらいですよ。アートマンとか言われても用語的な理解までで、何のことかさっぱりでしょうしね。
まぁシステムのマッチングや音楽との相性ぐらいは人生に於いてはどうでもいいものだけど、現象は単純化して検証する以外にはないので、あらゆる可能性は「ある」と仮定していよう。現象はわからないことであることをわかるのはソクラテス的アレテー。「ある」も「ない」も所詮はパラダイムで、主義にして固執すれば立派な信仰的態度になる。その内容が高邁ならいいが、趣味に絶對などないのにオーディオマニアは音ばかり見て音楽を見ていないことを大義名分で非難すればその信仰表明に固執しなくてはならなくなる。やがては音楽についての造詣を不用にも述べ加えた違和感のあるエクリチュールにも陥っているだろう。それは本当にその音楽が好きならば脱文学としての許容範囲になるが、大半は、モノではなく音楽を見ていますぶってるに過ぎずその精神は無為自然ではないし、あまり倫理的に優れているとも思えないね。

創造性のない人間は、人格にも創造性が乏しいゆえ、人性の浮き彫りになるインターネットを見て、その多様な姿に多様な嫉妬をする。「素顔」ではなくそこに「ペルソナ」を見ることで埋め合わせをしている。芸術肌と非芸術肌の間には、肌の色の違いほどの差異があるもの。真贋の見抜ける人間ならいちいち目くじらは立てないし、創造力で相手よりも上に位置しているのなら、いちいち得意分野を掲げた投影などはしないだろう。人の評論にたいし、もっと感動できることを書いてくださいなどと言いつつも、自分は模切型の感動表現が目立つこと目立つこと。模切型のエクリチュールにこそ、詩的感性の飛躍のないことが伺える。
キャラというものが創造や捏造であるかぎりキャラの多様性には創造性があらわれる。創造でないのならそれが脱することのできない自我になろう。自由に演じたりすることのできるしがらみの無さになりたければ、火の鳥のように踊り狂って自我から外に出るんだな。

どんな髭剃りにも哲学はある

宗教では成果主義は戒める。
低次元な見解を覆すほど、格率とは見た目以上に深遠な理由を持つものが多い。
もちろん見た目のとおりの奥深さしか持ち合せていない場合も多いが。

ゲキの河

病人を笑えば明日はあなたが病人です。霊的現象をなめたらいけません。ま、それを「霊的」と表現するか否かはその人の宗教観や扱う言語にもよるけれど。

キリスト教信者が意外にも理知的で、論破されたゆえに怨むんなら、その悪魔論は筋違いではないのかな?と思うことが多い。


インド人にはB型が多いのがおもしろい(40%超)。「インディアン嘘つかない」は、誠実に思えるけど、「インド人うそつかない」・・・ってそれは、10人に9人がうそつくから成り立つテーゼでしょう。私は嘘つかないと言った時点から嘘になっている。

本質が見えなければ本質の見えない盲人同士でしか交歓できない。たとえば本性から乖離した人間は自己から乖離したところにある笑いのつぼに反応する傾向にあるようで、人間的笑いからは遠い。高笑いは自己から乖離した笑い方の典型である。諧謔よりも誤謬、感じるよりも理由付け、見抜くよりもあら捜し。きっと悪意のある良心より悪意のない侮蔑に大きく反応していることだろう。
人間は馬鹿かな。原因は本当に些細な事柄であっても、付随するものを肥大させている。
運の悪い子はいじめられて塞ぎこみ更に運の悪い子は親にないがしろにされいびつなまま発達してゆくが、イエスは理不尽な仕打ちをされても最後まで無情の愛を説いた。あなたがたは「目には目を、歯には歯を」と教えられている。しかし私は言っておく。右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい。そして自分を欺く敵のために祈りなさい。観念でわかっていても実践しなければ意味がない。「自分は汚れずに済むなんてなんて有利な生き方だ」なんていう反駁や「悲劇のヒロインぶってるみたいで嫌だわ」なんていうのは不必要。「それはないな」 自分はもっとマシですみたいなのも自分が比較の対象にあってその瞬間には目と視点が乖離している。自己を否定されるような経験があってそのままでは主観が乖離したままになっている。だから戻さねばならない。戻さねば虐待していじめることになる。乖離した行為に、乖離した精神の機転で喜びを見いだしている。乖離したものを元に戻して時間をかけて主観で喜びを見いだせるようにならないとならない。傷つけられずに済んだ人間なぞいない。無礼などという卑しい感覚がなく人の目を遠慮なく見て話せる天皇陛下ぐらいである。しかしそれはほんらい普通である。恨み面の裏で回転を為す精神のいびつさの根源は、もともと小さなものであった。ほんの小さな負のストロークが原因で大きな歪みになっている。恥の多い人は人に恥をかかせたい。苛められてそれが羞恥になっている人は転んだ猫のような表情を求める。求められたとおりの出来事が起これば、その時点でその願望は倍加しているといえる。反対に早いうちに人間性に立ち帰った人はそれをコンプレックスにする様子もなくしている。石を投げても返ってこない。
本質は本質に近づこうとする。しかし絶対音感がない人間はああ言えば上祐に陥る。例外を突く思考は乖離性からきているものだ。自然性動物性人間性から乖離していることを無視して言葉で抗うことしかできない。キリストが最高の美しさをもつメシアだったとすると似非キリシ(ry
ここの部分を見極めることができ、且つ、本質まで見ることのできる能力は、知識量で正確にした分析能力よりも研鑽した感性が多くを占めているだろう。本質とは本質として理解した時に身体に浸透する。悪い種の鳥肌なんて立たない。学者でも芸術家でもなければそれを説明する必要がないのでスムーズに消化して生きていける。幸福な人間であるための一つの才能に、本質を知る才能に恵まれた一社会人である才能がある。次元の高いものを求める人は磁石に吸い寄せられるようにして人生楽しむのがよいようだ。子供のなにかを求める目付きにはなにがある。思索深度は横から見ると表徴上にラインが見える。平面的だ。子供は慢性的に不足感に悩むが、次第に求めていたものを忘れて感性ボケてしまい、大学でやっと本質を手に入れられることとなったのに授業内容には今更興味がない。一般的な親や教育者は子供がなにを求めているのかわからないので、神知学の領域を考えるとよい。自ずとシンクロするだろうから。今の知の段階にあっては本質を見ることのできるのは一部の人間の特権になっている。絶対音感が欠けている。怒りや恨みは正当化されうり、アポロジーの威力は未だに強く、ふさぎ込んだ人間はふさぎ込んでいる状態しか知らないでいる。喧嘩腰な議論をけしかけてドーパミン分泌させて喜んでいる。自意識過剰は乖離した思考をこれが本質だと思っている。意識圏が狭いので本物まで拒む。箴言が自分に都合の悪いのは間違えた方面に歩いてきたからだ。本質に触れておらずどちらでもいい脳みそだから都合のいい方を選ぶことができる。何事も「たかが」で済む。「たかが宇宙」「たかが紫式部」そのたかがの態度は科学にしか通用しない。でも現実、「たかが原爆」すら人類を何億回滅ぼすことができるだろう。

どの国も核をもつようになる。謙虚でそういう威力をもたない人格の方が優れていることはたしかだが、現実、神の摂理を崩壊させる悪魔の威力を抱く軟弱な人間や国家はますます増え続けることだろう。
でも謙虚で素直なほうが優れている。たとえ謙虚で素直な美しい精神で長い間生きていても、最後にその優秀なところを自覚し悦に入ると、核に滅ぼされることもまた確かである。ならば初めから核を持っていたほうが悦に入っても滅ぼされないから優れているということにはならないか、というけど、ならない。4年間謙虚に素直な美しい芸術のアウラを生み出しつつ、最後にその芸術を究極の段階にまで持ち上げ、崇拝され、ふとした時に悦に入り、滅ぼされても、上(神)の方を向いていたその4年間は御霊や人々の霊性の中に節制のある偉大な生命としての優しさ、まごころ、美意識を涵養していたのだから。初めから悦に入っており、最後まで滅ぼされないという精神や国家は、功利主義において必要がないどころか、別の精神や国家に核の涵養を進めるぐらいである。