独創性と感性のほとばしりのなさで描く場合 がつづく




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頽廃した時代には自分の信じることを言わなくなる。それどころか自分が一体何を信じていたのかがわからなくなっている。あることを信じている思考の働きは、私は信じていると認識する働きとは違うので、どちらかが欠けていたりもする。

「本当に宗教信者は宗教を信じているのだろうか」という謳い文句があるけど実のところそれは衒学のみで暴走している当人のことなのではないのか。言葉の中身が空洞化しているのは。
その証拠に僕には言葉の上でしか理解できてなかった。内実が伴うことが当然のことなら、伴っているように映るしかないのだから。
また反対に伴っている普通の人の言葉が(企業も、体育会系サークルも、図書館で必要から追求してきた個人もみな)洗脳とか頭まで筋肉でできているとか集団オナニーにしか映らないのは、実はそんな精神のはたらきだったりするんじゃないのかな。実体から乖離した精神の。
男が女を女が男を求めることは確認し合うまでもなく行われているが、動物的なことから形而上学的なことへと飛翔する場合、人は確認し合うものだ。人それぞれ10代には10代で、20代には20代で確認すべき事柄がある。それを怠れば自分の苦しみ・思想は現実を疑わない社会一般の者共にはわからないんだ系の叫びを30代になっても続けることとなる。(批判対象である盲信も同じく確認作業を伴わない世界である。)(これを因縁という。)
人がまず覚える最も普遍的な言葉は「母親」である。大地の母胎であるママ。そのママと身近な物事を確認し合ってきたように、もっと広い世界に飛び立った場合、そこにいる人々と確認し合うことをしなければ本質としては得られるものがない。宗教については形骸か空洞しか語れない。語られたものはお天道さま教にしか映らない。
英語には「いただきます」や「ごちそうさま」はない。仏教には食事五カ文まである。キリスト教は感謝をして食べるけど一般的な西洋人にとって「いただきます」とか「ごちそうさま」という概念は「宗教」としてしか映らないことだろう。

漏尽通は感情や主義に囚われない本質を見通す判断能力だがそれは色不異空。空、暗在系が伴わない限りは宗教的な判断は色のみの主観になる。

主観に正しく宿っている対象をいくら攻撃しても自分の身を滅ぼす羽目になる。それが人体である脳髄の現実。特に信仰者相手では神仏の祟りともなるところだろう。神性を無化しても仏・超人にでもならぬ限りメンヘルの無気力で、スピリチュアル性を否定しても想像力欠如・無感症に陥るぐらいである。科学者はそれらをむやみやたらと滅ぼしているわけではない。

主観性を得られず人はリジンへ――
かつて投げかけた言葉が自分に返って来ることを恐れて根拠を構えてなければならないので主観性は壊滅に向かう。物体としては素直さを受け入れられない過剰な自意識となり因果してくる。(原初的には悪感情自体が脳細胞を壊滅に向かわせ、さらなる人間性離れへと加速させるもの。)(宗教の要は祈りにある。)
クレペリン検査をして「9のとなりはマイナス1にした数字」などという客観思考ではスピードに乗らない、無我にならないと思考が賦活されないことがわかったけど自覚している性格欄に「どちらかというとそんな主観乖離した人間の前途を見たくてうずうずしているほうだ。」がないのは残念だった。

高校1年の時のクレペリン検査はMAXだった。でも今はABCDのうちではAランクだろうけどたいした結果ではないだろうな。事務適性検査の結果も周辺の人のマークシートに比べると1.5倍はいってると思ったけど中学に入学した3日目ぐらいに一斉に行われる知能テストの親子面談でそれとなく参考にされるその結果に比べると、客観的になった現在は当時ほどの偏差は得られていないだろう。