物事を嘲る者の物事にたいする理解力なさと同様、正しいこととされる模切事なら妄信者にも述べることができる。ネット右翼もカルト教会もチャネリングも、スリップした言動が目立つが、内容は浅はかで同じことばかりを言っている。そして、"気自体"が変。気づいているだろうか。逆に、ロートレアモンの霊性は通常の人よりも高かった。これはどういうことだろう。ロートレアモンは24で原因不明の死をとげているが、たとえ短くても、それを笑いたがるキリスト教患者の愛のない愛とか、妄信家のかしましい美徳より、芸術家における残虐な喜びのほうが、その気の性質において勝っているということだろうか。彼はキリスト教徒よりも苦しみ抜いていたんだろう。モリエールのドンジュアンもいい。ドンジュアンは徹底した無神論、スガナレルとコンビを組んで平然とした嘘、偽善、宗教の道理には反する行為千万だけれど、ドンジュアン(を綴ったモリエール)の霊性は模切型の人間よりはるかに高い。だから高次な愉快さを読者に与えるのだろう。キリスト教徒も仏教徒も崇拝する神仏の元々の霊性のように次元の高いところに向かう人ならいいけど、アインシュタインがいう「豚飼いの理想」になっていてはならない。しがらみになるのなら教条も道徳もいらない。そうなると魂は成長どころか、水溜まりの中に腐敗する。最近テレビでもたまに変なのが見られるけど日曜の八時にダサい音楽でリフォームしてるあの人は普通に論外として、高談のしすぎで首が揺れてる占い師も、たかまのかむろかむろぎくしきみたまをさきわへたまへを体現できていない。まぁ言ってることは嫌いじゃないけど、説教をしても相手が改善されるか否かはその人しだいでむしろ歪んでしまうことも多い。かの高談魔はそれをすら得意げに、さらに高い位置から説教するのだろう。本当に改善の意志はあるのだろうか。神は違う。橿原神宮では無料なのにあそこまでしてくれた。なんで賽銭も投げてないのにここまでしてくれるん?神気はこころにまで浸透してくるのだけどその心が清く清々しくなる。元々の状態に戻るというか。僕もその気を養えばルサンチを吠える正義すら癒せると思うけど、たいていはその負気に呑まれる。だから神は僕より偉大だ。当然見返りなど求めていない。あの次元からして、もっと良くなって欲しいと願うのみである。己の倫理は神の霊性に包まれているからこそ、倫理たりえる。人間に囲まれた場所では批判とか愚痴に成り下がる。多くの人間はそれによってタブーを設け、自分自身を縛りつけることになる。こうなると踊らないと暴破できない。 |