般若心経



般若心経とは、聖アブァローキテーシュバラ(観自在)が長老シャーリプトラ(舎利子)に知恵の完成について語った言葉。物語りになっている幽遠な経。これをきいた釈迦は賛同して喜んだといわれる。


般若心経本文
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是…

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
いらない。これいらのいの。いらのい。全部棄てる。。いらのい。これもいらのいの。ぜんぶ棄てると残ったものが無ではなく空だった。魂。究竟的には真我。空とは縁で成り立つ現象世界を表しているもの。cf. 全知全能。おのおのの単子に我があるわけでなく、関係性によって全体像となっている。(という考察は初禅〜空無辺処あたり)

度一切苦厄
般若心経にはパワーがある。意味がわからなくとも願掛けのようになっているのだと思える。やはり唱えないとなかなか浄化はされない。芸術の一回性があって、作成者の複製芸術が祝詞やお経であるゆえ、その霊性の高い作用で神・仏にむかえるのは自分以上の作用であるゆえ(形而上に訴えてくる。クラシックの大曲を聴いた時、感性がその形而上に引き上げられて清清しいような)、空に至ってない自分は浄化された心地にもなるもの。

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」
これはヘラクレイトスの哲学とも似ている。

― ヘラクレイトスは、世界を運動とか変化という観念でとらえようとした哲学者です。世界は絶えず変化するものだとした「万物は流転する」という言葉は有名です。そして彼は、万物を川になぞらえて、「同じ川に我々は入っていくのでもあり、入っていかないのでもあり、存在するのでもあり、存在しないのでもある」という謎めいた言葉で、この世界を語りました。(PHP研究所 ビジュアル図解「哲学」) ―
ヘラクレイトスの哲学は子どものころトイレに入ったあと、もしここで水を流さなかったら、どうなってるんだろう、残ってたけど流すのを少し遅らせたらこれとは違ったふうに流れるんだけど、それはもう流しちゃったから無理だ。なんて考えていたあの時のことを思い出すよね。決定論によると、人間の意志や思考を含めてすべては量子力学的に決定しているみたいだが。

エネルゲイアには情報がある。[色不異空]
情報にはエネルゲイアがある。[空不異色]
エネルゲイアは生きる実体。[色即是空]
生きる実体はエネルゲイア。[空即是色]
(エネルゲイアという言葉で合ってるのかどうかは知りません。) cf. 秘密隠顕倶成門

色不異空… 色はひとつには目に見える現象の世界。可視光線範囲内の光を発する物体等。これは科学万能の今の時代問題ないが、空については無と混同してしまいがちでそういう解釈をよく見る。「目に見えるもの一切は無である」ならべつに色不異無でもいいはず。物理的虚無では真実不虚に矛盾する。空は空虚のことではなくアウラを含む実体のすべて [ブラフマン]。その空相は解釈できず誤魔化しようもなくありのままに敷衍す。霊性感応もなにか物体に触れて感応しているのではない。ただ霊性の躍動が縁によってこちらに作用しやすければ、五感ではないがある種の感覚で知覚しやすい。色不異無では諸行無常の移り変わりに相容れない。一切を自我をもった物質に固定化してしまう。生命とは振動と循環にあるので、水の流れがなければ腐ってしまう。それではの境地には遊べないし、是大神呪以降のfinaleに繋がらない。

受想行識。亦復如是。
「空もなくせば むなしかろう」

無の捉え方としては観自在菩薩からのつながりで、世の中は泡のごとしとする。努力なしに思い通りにはならない苦厄の世界、思い通りにしようと我をだせば、苦厄は増してくる(貪瞋痴)。その思い通りに描いている世界自体も顛倒夢想。般若心経の考えは無の観想のみでなく、浄土真宗の決定(けつじょう)した他力にも通じる。五見に通じる。
何が移り変わっているのかを科学するならを暗在系とでもするが、額面は永久に循環論法さす。時間を止めて分析されるとそこは無の世界。現象は常に循環し予測不可能で難思議なるもの。

色=明在系、空=暗在系 [blackmatter
とすると、ひよこの姿が明在系なら、ひよこの重さは暗在系で、色空両者はかけ離れてはいないので、手に乗るそこのひよこが5キロもあるはずもなく、ビジョンではなく物体としてのひよこがたんぽぽの綿より軽く飛んでいくことはない。ひよこは50g程度の質量をもった空である。

空なる気持ちとは?…プラーナーヤーマが熟練してくると、呼吸をさせられているかのような状態になるようだけれど(齋藤孝の『呼吸入門』という本に書いてあった)空なる気持ちとは、空気や地球と渾然一体となった気持ちのことになると思う。自分で呼吸をするのではなく宇宙に生かされているかのような状態。宇宙に右に行けと言われれば右に行くような素直な有り様。これですっきりつながるね。決定論のように石頭の鉄のかたまりでもなく、たんぽぽの綿のように白痴に舞ってるわけでもなく、肉体が宇宙を無視せず、一体になって躍動してる状態のことだね。

舎利子。是諸法空相。
二回目の舎利子以降は無の追求すらしない教え。
不生不滅。不垢不浄。不増不減。
舎利子よ この諸法は空相であり 生ぜず滅せず 汚れたものではなく汚れていないものでもない 増えることもなく減ることもない。
不生不滅以下のパラグラフは是諸法空相にかかってる。
無受想行織〜無智亦無得の長文は是故空中無色をうけて無の説明をしている。

無は音響と音楽の違いで説明するとわかりやすい。[
音楽はどこにも存在していない。でも音響は存在している[色]。指パッチンを鳴らすと、振動は指から全方向に広がっている。鼓膜に伝わった音だけが音の全てじゃないし、パッチンと鼓膜を震わせ、有髄神経を伝って脳に届いた音は、振動そのものではない[無]。音の印象も恣意的(ソシュール)で、指パッチンの音だけ聞いても、ふつう指パッチンだとはわからない。キッチンの音かもしれない。でもこころに育まれた音楽とは心経でいうと波羅蜜そのもの。音の葉脈的振動の連続が、形而上に養分を運搬し、こころに音楽を育む。その音楽は空と呼べるだろうな。作曲者の空からリスナーの空へもダイレクトにゆきわたる。介在するものがなければないほどに恣意的ではなくなるだろう。
われわれは観念を空っぽにしたほうがダイレクトに正直に生きられるだろう。宗教やってる人のなかには関係妄想・関係念慮(迷い)に囚われる人も多い。そんなときは般若心経。


PHP研究所 ― ヘラクレイトスの、「世界は相反するものの調和で成り立っている」という考え方は、「生と死」「老と若」「始まりと終わり」など、私たちが持つ世界のイメージに近い部分があります。対立と調和という関係によって世界の変化する姿をとらえようとしたことから、ヘラクレイトスは古代的な弁証法の祖ともいわれています。


即是≒顕幽一貫
あ・うん。人間は物事を一面識に捉えて肩幅を狭くする一方で連動して倍化する。思想自体は無でこの世に存在しないが思想の回路が醸すアウラは伝播する。思想という束縛から身を放つ思想の威力がほしいもの。
なぜ坊主は頭でっかちなの?。それはきっと習字をしているからじゃ。宇宙捉えきれないからと記号で解体すれば整理されるが、捉えきれたものじゃない。小型マイクロ化のパソコン的生活は諸器官を退化させ、唯識、すべては悩作用、に帰結して状態を逸したままでいる。美しいアウラを美しいと感じられず、力をもったアウラのその威力は得られない。
現実社会で悟ってる人は養老孟子のような仏教観を持ち合わせてる。世界観が正しければ空にたいしても馬鹿げたことは言わない。国家の品格。この世に同じものなどないのだから結句、質の問題に進む。ただ正しいことを言うだけはたやすい。どこまで悟りが深く広く万遍ないかが問題だ。(…現実はフラクタルだからこそ諸行無常、諸行無常だからこそ臨機応変でなければならない。争いと融和は繰り返して止揚する。それを恐れて奇怪になる。ジンテーゼの逆走といえるがん細胞の形質もまた、無限種類あるが、感情表出を恐れて機械になり、細胞自体が機械になったわけではない。細胞という生き物の呼吸するままそうなっている。)
ちなみに神社の祈祷では穢れを祓うのみでなく、神の御稜威により霊性の振動を諧和状態にもっていってもらう。祓いのほうは、普遍性に照らして異常なものをアポトーシスしているNK細胞と、立ち回りが似ている。清めのほうは、霊素を頂いてドロドロ重い振動をその高さにもちあげて、流れのよい軽い健康体とする。内発の撥するとおりに顔筋が動くように。怨霊も笑えるように。

是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。
このへんは幽霊になったときの世界みたい。幽体離脱したらわかりそうな。

無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。
「尽」というのは非想非非想処。識無辺処の考察すらない境地。純粋主観(プルシャ)の状態。


アルケーは「火」
ヘラクレイトスは、万物は流転するとしながら、その背後には変化しない根源物があると考え、それは「火」であるとしました。彼の考えた「火」は、ある物質というよりは、運動そのものに近いイメージで、現在のエネルギーの原理のようなものでした。「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である」というこれまた難解な言葉を残していますが、これは、火の燃焼は絶えざる変化だが、つねに一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定のすすがたまるという変化と調和の姿を示しているといえます。
ヨガのサーペントファイア(Serpent Fire)に通じるものがある。

ヘラクレイトス (600B.C.頃〜500B.C.頃)・・・ギリシャの哲学者。名門の出自と地位を捨て、孤高の生活を送る。あだ名は「暗い人(スコテイノス)」「泣ける哲学者」。万物の根源は「永遠に生きている火」と考え、一定のロゴス(理法)による支配の中で、自然は常に生成変化するという動的な万物流転説の立場をとった。神がかり的で難解な著作は、今日では断片130あまりを残すのみ。


是大神咒是大明咒。是無上咒。是無等等咒。
咒(呪)とは真言で、真実の言葉。神聖な言葉で、言葉自体に霊力があるとされる。この歓喜なfinale は楽になった境地から沸き起こっている。アウラの波形がユーフォニー。それでいて色気があって美しい。ハイエンドオーディオという感覚 (般若波羅蜜)。(ハイエンドオーディオ・・・物理的にはサンプリング数の少ない調性は簡単で、クリアルな音のオーディオは高くない。JBLやMcIntoshみたいな音が為し難い。)


葬式仏教は原始仏教との対比でよく批判されるけど、ビジネスとしてならまだしも、伝統仏教の思想としては通底している。やり方の相違に過ぎない。もとより親鸞は、屠沽の下類にたいしても暖かい見解を示しているのだけど。
死ねば肉体を構成する物質は消える- 構成要素のみが遺る- 頭で考えることはできないし、見ることも書くこともできなくなる。霊は自分ではどうにもならない場合、人に縋ることになる。人はベルクソン時間のうちに現象をわかっている。四十日、百か日、一周忌、三回忌。どんどんベルグソン時間は延びてゆくぅ。次第に安定してゆく。心も遠くなってゆく。[]

心経とはひとつに偏った定義から離れるもの。そのままに観る[如実知見]。だからあらゆる説明の真贋はともかく・・心経が本当に身になっている [修慧] のなら宇宙そのままの静寂が得られるはずなので、現象とたやすく不和を生じるうちはまだ甘いかな [無諍三昧]。空が音楽なら音楽の詩情を涵養するといいかな。長持ちするのがやっぱりいい [アタラクシア]。ROCKはすぐ耳と脳が疲れる。
「目に見える調和より優れた目に見えない調和」
般若心経をえ奉りて、波羅蜜が得られないのなら動機や取り組みが甘いのかもしれない。人間的意識の痕跡のない仏は自分は悟っているという意識すらない悟りの境地に安住している。執着がなくなることに囚われるのもまた取り組み方を間違えているのかもしれない。



その他文献

梶山雄一 『般若経

認識と媒体の関係も色不異空。
文字は脳で読めば恣意的なイメージになる。
霊性を働かせて読めば感能力に応じた世界になる。

柳沢桂子 『サライ』より −宇宙は極微の粒子から成り立っています。おたがいの関係が安定したところで人や様々なものを形作っては、また変化します。−

雨霰 雪や氷と へだつれど とくれば同じ 谷川の水 (臨済宗:一休宗純)
あめあられ 雪や氷と 言語で隔てても 溶ければ同じ 谷川の水

『百喩経』の病人が雉の肉を食う喩もよかった。

プラトン『パイドン』 イデアとは仏教的には空性のことかな。