音について【1】

Je pense..
オーディオの音でいう弾力とは材質的にいうと塑性的で、冷えると硬くなり熱を加えると軟化するような感触である。亜鉛鉄板、モッツァレラチーズ、チューインガム、低反発枕、EXGEL。反対に熱を加えても弾力を増さないような硬さになると
ドンシャリである。鉄板、木材、氷、など。鉄琴、木管楽器、グラスに響く氷の音など、硬い材質は音を出すけれど、軟らかい物質は塑性に準じた音しか出さない。ドンシャリとはドンシャリ自体から固有の音を発せられそうな硬い音のことで、メロートーンとは音それ自体に変性のあるもの・・・スプリングそれ自体には固有の弾力があるけれど、別の弾力は生み出すことはできない。固形物などの材質から出る音は純粋だがスピーカーは音源でもその前に発生体ありきで音楽は再生されたもの。音は可塑性樹脂のようなものなので、成型加工しやすい。電力もほとんど要らない。その分繊細さが求められるが。
一般に国産のアンプは波形の配向性が高く、
アキュレートで、海外のアンプは分子がさまざまな絡み方をしていて曖昧にも軟らかい。元の音を重合させる圧力の強度によって硬くなったり軟らかくなったりする。オーディオの曖昧さは悪く言うとHiFi性の低さにもよる。反面シンプルさに基づくものも多く、アナログディスクや管球アンプの音に共通する暖かさ、聴感ベクトルで快さのスカラーが感じられる。スポイルされていない。
五感で得られたものは仮の姿だが視覚と聴覚は最も間接的だ。音は媒質の粗密波でそれは鼓膜をふるわせて耳小骨を介し増幅されて内耳に伝えられる。聴神経という有髄神経を伝い、脳に運ばれる、その音は媒質自体ではない。味覚と嗅覚は分子や原子の素材が直接
デバイスに触れている分直接的だがやはり脳に運搬された情報はそれ自体ではない。直接的← 味覚<嗅覚<触覚<聴覚<視覚 →間接的
オーディオではパルス性電流の感覚デバイスにデジタル的に直接作用することは今のところ無理なので、アナログのまま現象化させる。
偽物のいくらは、偽物のいくらとして本物である。まずいということはあっても定義するならいくらの味である。でもデジタルでいくらの味を複製したとしてもたとえおいしくても感覚が疲れてしまいそうだ。アナログの音は表面的にはザラついてるのに感覚に馴染むのは、鮮度は産地ほどでなくとも、もともとのいくらだからか。自然は核力や斥力で中庸に成り立っているので自然。人為は自然の自然性には半永久的に追いつけないと思う。また同じアナログでもトランジスタよりも管球アンプが感覚に馴染む背景には優れた過渡特性がある。現物的なものほど原始的な感覚には有利なのか。音をよりアナログとして保つほうが元音の細胞の形質を残している。



LUXMAN M-7i


アナログの素性

アナログの音は人間の純粋な基底部を表現しているようだ。
プレイステーションで音楽を再生すると、デジタル臭さとはどんなものなのか身をもって体験できる。やたらと苦しく耳に対して不協和な音でこれはバッドトリップを誘う。音楽は僕と表面的にしか付き合っていなかった。スピーカーとは実のところ人格の破綻した存在で、磁気歪や固有共振によって互いの波音が負けず嫌いに反発しあっているのが僕には見えた。また、これは現実には存在するものだろうか、、担任の先生が元スーパーヤンキーだとか、修験行者が第三の目を嘯くかのような、…過剰な付帯音は偽装だ。演奏家は自分でもうまく脱皮できないうちに殻は変色し粘着性を帯び、その糸を引いた隙間から一層目のイエローな輝きを光らせている、、精神はいびつな回転を為しそれらは相容れない色のマーブル調に反応しあっている、、、早く解放されたい、 しかしそこで反逆し、これに耐えなければならない。充分に耐え偲んだあと手持ちのCD再生機で再生すればなんてことだ、性能の素晴らしさ、ハーモニーの数学的調和を涙とともに知ることができる。
レコードの音は優れたCD再生機よりも感性に馴染む。カーステでは、FMが心地いい。脳の中に残留するストレスが少ない。不協和な感覚を物理的に引き起こさないのがアナログのよいところだ。人為的な要素がまるで感じられない…Christの心情のように。スペンドール試聴会のあの空間で僕はYHVHを称えるのではなく、詐欺師について考えていた。瞞着はどれほど数学的に調和していようがそのアルゴリズムにおいて感性的な不協和が付き纏う。手料理は手が込んでるほどおいしいが手の込んだような手料理はおいしくない。泣こうとして泣くのではなく自然に込み上げる涙が美しい。目に見える音は悪くとも、五感に馴染む音は本物である。
我輩はデジタル派だけど、どれだけ本格的にしても、機械的に模造されたものは模造されたものなのだという意識はある。デジタルはインスタントとまではいかなくとも、アナログは手料理のように身体に馴染む。
本質に触れると身体が温まる。宇宙は一定の法則によって成り立っているけれど、その宇宙にたいし性相から調和していなければ形状に於いて"discordant"ということになる。アナログのノイズは自然な特性で"さわり"にもなるけど、デジタルには誤謬がつきもので、心の奥底に不協和を生み出している。その中にあっては倍音は宇宙にまでは広がっていく事はない。そこまでいうと言い過ぎだけど、特にデジタルアンプにおいては、その音は力感が凄まじく、皮相部はリアルだけど、そこにある音楽はまるで模倣されているかのようで、生でふれあう動物的なあたたかみは欠けていた。


スピーカーのエージングについて

エージングとはオーディオメーカーが保証する性能を発揮するよう慣らし運転することである。ある一定期間を過ぎたら劣化か
同化になる。
スピーカーは新品で買った場合、ウーファーがまだ動いてないかのように音が堅いケースがある。その場合、SP端子の片chを逆相に繋げモノラルの音源で(キャンセリング効果)大音量でエージングをすると軟らかになってゆく。ヘッドフォンならば近所迷惑を気にせず、一日中リピート再生する事が出来る。変わる機材もあるし、スペアと比べてほとんど変わってない機種もある。エージングが済んだ段階でメーカーが想定した音になる。しかしオーディオとは場合によってはこのあと何十年もの付き合いをするもの。スピーカーは生きているのではないかと思える体験をすることもある。以下はあるオーディオファイルの書き込み。
「レイフスのヘクラ(火山)と言う作品がありまして、この曲をダイナミックに再生出来ると、装置自慢する友人がおります。しかし、その友人の装置でシベリウスの弦楽セレナードを掛けると、ツルンとした楽器の質感が感じられない・・・・何と表現すれば良いのか、そうそう、測定器で聴くような感じなのです。
何故なのでしょうか、オーディオ装置はそのオーナーの気質を表すと言います。(特にSPは・・・)
長年、ハードなソースで鍛えられたSPは、与えられた音は全て完璧に再生する。その間にはSPが持っているキャラクターなんて押し殺されるのです。反対に、長年、音楽ソースで鍛えられたSPは、SPが持っているキャラクターが加わり、楽器の荒さなども表現出来るのです。まあ、この辺は30余年間ピュアーオーディオをやってきて、肌で感じる事なのですが・・・・」

この方はオーディオが好き以上に音楽愛好家なので少し感情が入っていますが、それはさておき、趣味やイデオロギーは音に顕れるみたいで面白い。振動板は極限にまで軽いものを理想としているので反比例的に充分な強度の持てなかったものは湿度や熱のエネルギーに侵食されやすい。経年変化したDIATONE のB4Cドームは爆音で鳴らしたら割れてしまうようだ。それほどまでに繊細なスピーカー。薄いし動的なものだから、波形が繊細か丸いか、振幅が小さいか大きいかなどなどソースに感応しやすい。長年電子音など鳴らされてきたスピーカーがクラシックを鳴らせないというのは管弦楽の音は複雑で波形において対極にあるからだろう。またツイーターなんかは煙草にも長年にわたって影響を受けそうだ。振動板だけでなくマグネット等の電磁的波形などの問題もあるかもしれない。アンプがスピーカーの個性に次第に馴染むとか、その反対とか。(このスピーカーの音の変化といふものには、もっと奥深い理があるんですけどね。たとえば飼い犬も飼い猫も飼い主に似ると言う。自分の家の犬猫でもそうだが5歳6歳になると前の犬猫と同じ性格になってくる。それは土地がそうさせているのである。同化現象。工場の跡地は土地を洗濯しないと人間は住めない。たんぽぽも咲かない。咲いても病んでいる。さらには土地には霊性;ヒッグス場がありお互いに影響しあう共存関係にある。その土地には産土の神様もいれば前の犬猫もまだいるのだろう。神は人に罪を与えないが、人間が少しずつ劣化してきたのは大地自然や自然性を疎かにしてきた結末かもしれない。)
 

オーディオのふたつの性向

メロウな音のアルゴリズムは人間の素性においては子供的な純度の高い曖昧性と親和性が高い。云わば、自然に調和した思考、知的解像度の抽象性、自我それ自体は自己主張を持っておらず音楽のソースに対して柔軟に対応する塑性などなど。
アキュレートな音のアルゴリズムは、理路整然としたニューロンの配向性による意思の確実性に相関している。モニタリングリスニングに向くが愛玩のようにこちらから音楽を愛でるようなリスニングには向かない傾向。機械的キャパの問題に直面すると鼓膜・耳小骨という高度なデバイスに対して限界感を与える。たとえば食べ物の好き嫌い、田舎モノがソトを拒絶するみたいに。しかし取り扱いこそ難しいがこちらはうまく同調したらすごい。レコーディングエンジニアは、ホールトーンに融解する以前の分解能・解像度、ニアフィールドで再現されるアンビエント、ステレオ再生における立体性など、録音独自の音楽世界観があることを見出した。それを再現できるものをhigh-end-audioと名づけた。


理論は単純。現象は複雑怪奇

なにごとも理論化されると単純になる。現象を、要約したらどうなっているかを理解するのが科学であるから。あくまで仮想であり、現象そのものを満たすわけではない。現象は複雑怪奇である。科学を応用して現象に適用されたものは現象のn分の1になる。ヴァイオリンは擦弦楽器でソロでも繊細で複雑な波形を持つのに、シンフォニックに折畳まれるとどんなに分解能の高いマイク〜スピーカーであっても対応しきれない。だから実売100万以内のシステムでは、音素がうまく融解し音楽的に調和した聴こえ方をするものが交響楽にとっては好ましいケースが多い。これこそが耳で作るという部分であろう。微塵にも汚れた響きを出さない演奏家達の音楽魂とは食い違うけれど、ミドルエンドまでのオーディオでは管弦楽は快く聴こうというより苦しくなく聴きたいという欲求が先立つ。AURA、CREEK、BOW、QUADや300B等の管球アンプ、Spendor、HARBETH、LS3/5AゆかりのBBCモニター系、Vienna Acoustics、DALIのTOWER、TANNOYのデュアルコンセントリック型、往年のONKYOなど。これらを組み合わせるとゆるゆるになるというケースもあるけれど。



人間と同じ

オーディオの音の素性は人間の素性に関連している。技術者の理想がその音に顯現している。スピーカーとアンプの相性は親と子、教師と生徒、太陽と自然などの関係に通じるものがある。お互いを尊重しあう関係はシナジー効果を生み出す。StingrayはNautilusを節度ある解像度で、Nautilusは Stingray によって節度ある分解能を保つ。管理教育のような管理で圧縮して重合させて鳴らし込もうとしていてはスピーカーのミュージカリティは
スポイルされる。子供はナイーブで大人の力でいびつに歪んでしまうことがある。逆に甘いとゆるゆるにもなるので、按配こそが大切。
人性なんてもの生まれつきに目に見えない力によって定められているもので、本人の力でどうにかなる問題ではないが、生物は互いのためになることが合理的な力を生みだすということをやがて知るので、相応しい対を探し始める。個性を不覚部まで認識し、遺伝子のパズルを解き、位相のプレーンに揃う正確な対を見つけ出せば、癖や好き嫌いやいびつさのない健やかな音楽が生まれるはず。その子の目には全てを受け入れる覚悟が見出され、全てを覆う愛が素性にあるはず。オーディオ自身も自分の手ではどうにもならないので、よい持ち主のもとにいき、よりよく活かしてもらえることを待ちわびている。そこから生まれてくる音はその子供の心。
…そう想定していけばいずれイデア的なオーディオが組めるはず。[以上空論]





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