アリストテレス
 アリストテレスはやたらとこまごま樂器を調律する演奏者は二流の演奏者だと判斷していた。[哲學的な帰結] これは奴隷社会での話だけど現代にも通用する。制度への意志薄弱な媚び、むやみに細かい偽の緻密さ、または演技ではなく本当に森が見えていないとか。
 物事の大小のバランスを欠いた耳はたとえ感度はよくても駄耳である。神經質な耳では美音に甘美な味わいを抱くこともないだろう。[音樂以前]


 神經質であることと集中力があることは違う。集中力のある子は伸びる。図工の授業はやりたいことはできないし、自己主張のない子は絵画で描きたいこともとくにない。でも集中力のある子は遊ばずにちゃんと描く。そのうちに楽しくなっている。学校の成績がよくても天才か秀才かよい子なのかはそのときにはまだわからない。
 社会の階層は上流になるほど、性格の細かさではなく感性の繊細さが求められるようになる。機械は計算しかしない。
 性格の細かい者は大ざっぱな者にたいして、ときに權威的な樣相を見せることがあるが、その仕事と決めごとの細かさは神經質の側面であり、たいてい全体は見えてゐない。一見論理的で物理學的でも本末転倒になりやすく、議論は終わらない。こと細かにゴミは分類するも、何の疑問もなしに車に乗っている。今は自然環境が滅んでいるゆえ、街中のプラーナは
希薄化するか退廃している。各種環境破壊の因果は何百年というスパンで応報し、末法の時代には神經質の虫に流行られることとなるだろう。


 絶對音楽
 ロマン主義時代においては、様々な芸術分野のなかで、音楽がもっとも根源的な芸術であるとされた。音楽は非物質的な音という素材を用い、具体的なものの描写という手段からもっとも遠い芸術であるから、ほかのどの芸術よりも無限なるものの表現に適していると評価されたのである。また音楽は時間のなかに存在し、時間とともに展開する芸術であるから、人間の精神や感情の様々な段階、変化や運動を体現することができると考えられた。
 そのような音楽のなかでも、とくに器楽作品にはもっとも高い地位が与えられた。器楽作品は言語や絵画的イメージなどの音楽以外の手段を借りずに、音と作曲家の創造力だけによって、無限なるものの源泉から汲みとった霊感を表現することができるからである。こうした純粋な器楽の最高段階は、やがて<絶對音楽>と呼ばれるようになった。(音楽之友社『はじめての音楽史』)
 - そのわずかな音とリズムから、音楽はあるひとたちにはプリミティブな芸術にみえる。だが、単純なのは表面だけで、これらの見えている内容の意味を可能にする実体は、まったくはてしない複雑さをもっている。ほかの芸術の外側はそれを暗示するが、音楽はだまっている。それはある意味でもっとも洗練された芸術だ。- ウィトゲンシュタイン


 Schonberg 
 シェーンベルクは20世紀の音楽の最も大きな問題を投げかけた人としてストラヴィンスキーとならび称される今世紀の最も重要な音楽家である。
 1874年9月13日、ウィーンに生まれ、音楽はほとんど独学で勉強した。当時ウィーンにおいて大指揮者で作曲家のグスタフ・マーラーやリヒャルト・シュトラウスの知遇を得て、作曲の教授となってのち、ウィーンおよびベルリンの間を何回か往來しながら、作曲の教授や自らの作曲につとめた。ことにウィーンでは「私的演奏会」の名称で急進的な作品を愛好家にのみ聴かせる演奏会をひらき、世の不評や反対と戦いつつ、ベルク、ウェーベルンら少数の弟子、友人らと無調、十二音の音楽の実験と制作に傾倒した。1925年から1933年にかけベルリンの芸術アカデミーの教職にあったが、ナチ政府に追われて1934年アメリカに渡り、ロサンゼルスの大学に職を得て、1951年7月13日、この地で永眠した。
 音列主義は様式ではなく、システムでもない。単に作曲家に示唆を与えるだけのものである。「私の作品は12音による“作曲“であって、”12音による“作曲ではない。」
 音列技法はどうも数学的、あるいはメカニカルである、という非難を煽りがちであり、確かにこの方法は最初からそのような攻撃に晒されてはいる。しかしウェーベルンのより以前の作品、つまり音列によらない作品の多くもまた同様に複雜な設計を示している。それにギョーム・ド・マショーからJ.S.バッハに至るまでのポリフォニー音楽は、彼の曲に劣らず高度に組織されているのである。実際ウェーベルンは、16世紀の初期のネーデルランド学派のポリフォニーから影響を受けたのである。(『十二音技法』)


 名称と記号について
 生命と呼べるものなら生命としての名づけがされる。生命以前で語るなら學識の名称になる。その名称はどこにあるのか。
 ― 千と千尋ではまず名前を奪われる。その時には「千尋」の文字が書面から離れて、空中を浮遊し、ゆばあばの手の中におさまる。
 ― 青銅器にかかれた[文]の字には人の大きくかたどられた中に心臟がある。生命の根元と考えられていたのでしょう。現代の[文]はその胸の枠組みのみになる。文から生命が消えた。
 ― 武満徹は音符を構成して楽譜にするのではなく、そこにたしかに浮遊してるものを、そのままのかたちで樂譜に投影した。
 ― 「語りえぬものについては沈黙しなければならない。」(ウィトゲンシュタイン)
 ― 「神ながら言挙げせず」(神道)≒不立文字(禅宗)≒他力本願(浄土真宗)。


 科学は木を見て森を見ず。宗教は森を見て木を見ず
 物理学のもつ權威と錯覺により、我々の心理的亊象はそれに並置されたままである。優れた魂の運動は、パラダイムに決定されない。雨上がりの空気の中にも生きられる世界がある。
 哲学や宗教は形而上を表すもので、芸術は爆発である。哲学と宗教の区分に於いては、靈の有/無がとりわけ重要で、霊性を肯定すれば宗教になり、霊感のない人の場合、宗教を語るにおいても、その主な構造は哲學的になる。言語が、符号としての言語になる。靈媒体質においては良かれ悪しかれ霊性とのかかわりがあるので、その分だけ言語は、太古の時代の命の言語となる。宗教は縁を共有するもので、そのまま生活的に関わってくるものである。
 言靈とは霊異語である。神咒やマントラもその類いのもので、呼び名とその実相が一致している世界である。空間は自律的な構造をもつ。寺の本堂では、真言に感応しやすい。經の合い口も仏閣ごとに違う。神社だと
ぱやぱやするのがくる。信仰(神霊界との交点)をもって祈ったり謳われるほどに、意味不明ななにかが涌出してきて空間の霊性は満たされるように思う。(一瞬もとのせかいに還れる)。空気もプラーナに溢れる。しとしとした雨が上がると水蒸気がセンチメンタルだが、水蒸気は視覚的風景には関係なくあるもの。ここにもむこうにもセンチメンタルがある。

 
 不動心と不動態は、似ている気がする。


 赤いリンゴについて・・・ ネガ反転すれば分子自体の近似色がわかる。赤いリンゴは赤い周期の進行波を反射しているから赤いのだけど、本当は緑のリンゴが赤い。かげぼうしをすれば裏の姿を拝むことができる。黄色いオーラの内側は菫色。御守りなどにゴールドと紫の刺繍のやつがあって趣味悪いけどそれはオーラの色の表現。これはファッションでも同じことかもしれない。本体を見られるようになるといいね。[Maxime]
 天照大神で生きられる靈・・・ 地球の周りの宇宙は暗闇。太陽から地球までの間は暗闇。物体は光を受けて、明るさになる。天照の光に干渉していれば、その振動で明るくなれる。地球は太陽の光を受けるから明るいけど、もしも粒子が光に干渉しなくなれば地球のすべても太陽光の中に消えている。透明地球。眠っている人は起こさないほうがいいのかな。


 ノエマ ― ノエシス
 ピカチューがいる。ピカチューの姿は黄色い電磁波の波長を示しているようだ。ピカチュー自体が黄色いのではなく、網膜がフォトンの黄色い振動を受け取っている。(となるとピカチュー本体の色は紫になる・・・この想像はエグいのでやめよう)。その生物は2Dの形色。景色になると物体の位置や光関係によるもので、そのクオリアは構成されたその形像に依る割合が増す。ディメンションに想起される心象風景になる。またピカチューはかわいい姿形をしているが、磐長媛命は末端肥大症のように醜いらしい。心眼の働かない時分における一般的な判断だろうか。色不異空で考えると、その姿形は霊性のあらわれであるが、好みはある。自分は少年が好きだが(饗宴参照)、かわいい日本人顔が好み。でも芸能界にそういう仔はいない。磐長媛命の女性のSexを守るという神威は、ピカチューが起こす10万ボルトのように我慢による功徳だろうか。


  ― 色不異空 ―
 純粋には点に大きさはない。線に太さもない。数など存在してない。お金という代物もどこにもない。合格不合格もないし社会のルールもない。地理も国境もどこにも
存在していない。音樂は存在しているのだろうか。確実なところでは音響は存在している。葉脈的振動の連続が、心に音樂を生み出している。さらにホールにはオーディオが奏でる以上の生の音楽がある。オーディオの音との差異がSignifieにおける心象風景の差異となって現れてくるが、もとより演奏する人たちの生の霊性がそこにはあって、それがクオリアの構成力として多くを占めているからだと思われる。心躍る聽衆により形成された特殊な磁場もある。その集合的無意識もひっくるめて『芸術の一回性』となる。となると無論、オーディオの個々の世界でもヌースが涵養されるほどに音樂も同じように深まることになる。オーディオの空間では独自の魄を涵養しやすい。ポータブルでは状況や風景と融化しやすい。どのみち形態に適不適はなく、すべてはベルクソン時間の流れにおいては逐次一回性だろう。複製はできても再生はできない。諸行無常。
 音樂はそれ自体クオリアである(→独我論)。アルケーはおそらく振動だからクオリアは空気中にも物質の中にもいたるところにあるけれど、意識に直接與えられているものの試論を行うのは自分の回路。人間的なもののほうが人間にはわかりやすい。神話的世界においても、自然になりすぎた存在はもう神仏としては
知覺されてないかもしれない。インスパイアがなければ想像困難で、インスパイアを繰り返せばクオリアの振動は増大する。そのクオリアは形而上にある。音源は音場にあるが、プランクスケールの時空を超えたところにあるヌースも影響して、そのクオリアは形成されてゆく。薫習すれば次第にもともとの作曲家・演奏家の生のヌースに近づいてゆくことも考えられる。もともとの音樂エネルゲイアが希薄な作品ならば、それまでに飽きる。人工的であればその美は続かない。インスパイア以上のものは創造困難なもの。(僕はダイモンを知っていた。ダイモン。アニメに出てきたわけでも何かで見た訳でもなく、おのずからその名前が完成されていった。)⇔(テレビでもCM等の特殊な映像をみて、子どもの感性は特殊な感覺を得る。なぜそんな感じが得られるのか不思議がっていた。今思うにそれは腦内で現象するもののみでなく、純粋主觀に連動する外在するなにかがあって、意味のある偶然性のように誘い起こされているのではないか…等等)



神は媒質的・物質的に存在しているとは思わない
なぜかそこにいる
なぜかいるそこに


 時間は現代物理学の主觀で、X軸,Y軸,Z軸のユークリッド世界に並置される概念。人間の五感が世界のすべてではない。それは発達過程の世界である。視力がまだ備わってなかった太古の生命よりはフルカラーとなった今の人間の視世界のほうが、より一層仮想ではなく現実的である。それと同様に霊性的な(物理的にまだわからない領域を総称してる)感応力が増せばより素晴らしい世界、開けた現実が待っている。
 神社仏閣の本殿には濃密なエネルゲイアがある。もちろん濃ければよいというものでもない。販売店とか英会話教室でも濃い霊性をしたところはある。町中でよく見かける募金活動も、低レベルの愛の押し売り活動であることが現にあるのだから、今の世の中たいへんです。とはいえ神社仏閣にもなれば、低いところでも一般人のそれよりは高くて、心地よくて安心できる。自分はなんて次元が低いのだろう、という悔悟は、神仏の霊性を目の当たりにするから衒いではなく本心になるんですね。松下や東芝の社員に創始者を敬う人がいるように。宗教は霊性でわかってなければあまり意味がない。また人物を敬うにもそれが霊性的であるなら宗教的といえるだろう。人それぞれに霊性があり、感応幅もある。昔『なるほど・ザ・ワールド』で、犬の世界は白黒だけど鶏には「紫」が見えるとかやっていたが、人間の網膜にもRGBと
RGBEの人があるらしい(いわんや霊性をや)。シェキナーはどこにどうやって形成されているのかはわからないけれど、そこから湧いてくるエネルゲイアには生きた情報波形がちゃんとある。しかも例外的に高いところになると、その霊性に応じたミュトスの模切型でない美しさとか普遍性に昇華したロゴスが備わっている。(もちろん低い例外もある)。そのメタフィジカルな情報の具体的な理解になると、日常的に無欲で素直で正直な態度(アパテイア)で無意識を推論できてなければ正しくは無理だけど(漏尽通しかり)、たとえ神仏の意識は読めずとも霊性は影響受けているので、あとで表層意識に昇って気がつくことは多い。
 繊細で複雜なものになるともうほとんど意識的には解読できないらしいが、強い歪みをもっていて金縛りになる霊とは違い、自然体とは概して透明で、通過しても何も残さないとか、波形が自然すぎるなどして、もとより気がつかないことも多い。自然界の音は葉脈的な響きをもつ。自然の中を歩くと、ほんとうにすがすがしくなれても、その感覚は自然すぎて忘れさられてる。ということはさらに自然なナチュラルもありうるということになる。単色の生命体と実際の生命のもつ情報の纖細さを比較すると、単振動と弦の響きほどに葉脈さ加減が違う。人は神經パルスには敏感でも、自然なものほど感知しにくいという側面についてはほとんど省みられていないように思う。自然界の一層複雜でフラクタルな流れは感覚を一層繊細化さす。ズレてないシンプルさで。精細に織り成してる無数の振動が、通様相的に感性を飛翔させる。自然体でさえあればそれがわかる。
 自然のみなら自然でよいけど、神仏は自然に光るので、自然なエナジーをもっているということになる。それもものすごいシナジーを生み出す。でも環境音なら自然のままだが、オーディオを通過すると自然ではない音になるので、宗教は諸刃ともいえる。エナジー自体は力を求めた身体技法で得られるが、ボリュームを上げても調性のとれたアウラでありつづけるのは難しい。下手するとクンダリニー症候群になって終わる。そうでなくとも高い次元をアウラで教えてもらって心に残していなければ世評やビジネスに阿諛追從した取り合わせの価値観にいともたやすく堕してゆくだろう。宗教を知った一部は教祖様になる。この世界結構恥ずかしい
屹度馬鹿が多い。低次元な正論ぐらい誰にでも言えるのに。(科学ヒステリーでも同じだが)。『音痴』の音楽用語にデトニーレンというのがあって、その原因は、不注意、訓練不足、エネルギー不足、先天的欠陥というものが挙げられている(音楽の友社)。まったく、霊性音痴についても同じことが言える。
 浅間大社では精妙な審美眼が得られる。それはもとあるものが賦活されて輝くのであるが(おのずから)、それは器楽教育の行われた人の音樂鑑賞とおんなじだ。色盲でもとがなくとも赤とか黄という波長を受態すれば開花してゆく。得ようとするのは自分で与え続けるのは神仏。審美眼というものをもとから備えているのなら、浅間の大神や木花之佐久夜毘売命との
シナジーによってその審美眼がより纖細化することになる。
 でもそんなことは考えていてもほとんどアクチュアリティをもってこない。修行すなわち仏なりとは臨済宗。修行するに修行するという作意心があってもならないようだ。意気込めば衝天の志気を挙して穢れる。ヨーガではプラーナの流れを感じとるのだけど、流れを感じるには流れに委ねなくてはならない。小説も、読むだけなら斜め読みでいいけど、その中身を味わいたいのなら牛歩も必要で。音樂鑑賞もまた、高い人格を欲望的に求めて反動形成するセミナー系の性格ではまず爲せない、自然な趣味なのである。神にはかんながらの態度があればおのずからシンクロナイズしてゆくけど、疑いの念や高談戯笑の心があれば観念学に終始していることだろう。素直な信仰心が信仰表明以上に大切なのである。また科學的に幾分解明されようが、神秘は神秘であることに変わりはない。(森羅万象とは全パロメーター×全パロメーターという∞乗の世界・・・語りえぬものであることには変わりはない。霊性はコスモゾーンであり、ケーキを分けることができるので、各々の個性まで実証できなければありのままのすべてを語れたことにはならない。まぁ要するに論証すら不可能なんですよ。たとえ神と合一しても合一した一部しか知らないのだし。)(各々の浅間神社にはそれぞれの分靈が置いてあって、浅間大社に繋がっている。霊格はふつう大社がもっとも高い。また各神社仏閣とのよしみか本殿とは別の小さな宮社も所在している。遠出しなくても済むのだけれど丁重には祀られてないので霊性はやや落ちるようだ。その小さな宮社ではよく思うことがある… 生きた人は生命に満ちていて温かく、寂しいところを暖めるからその分なにかしてもらえる・・・という交換関係になるのかと。だから清明な神にとっては多少低級な願いであろうが、ありがたく叶えてしまうんだろうか。ほかには、眷屬がいる。眷屬はその神仏に従うものなので霊性はやや落ちるが、幻日のように働く。守護に来てくれたりお知らせに来てくれたりするありがたい存在である。神仏や環境のもともとの霊性が高ければ高くなる。水の波紋や基音と倍音の関係。眷屬にもさらに眷屬が屬していて、さらにまた眷屬がいる。僕はその眷屬である。このようにすべての神仏は天之御中主神という基音につながっている。)(これは企業とかでも同じ。上が善良ならおのずから下も善良になる。儲け主義の体質は下の人にも出てくる。理念に同調すれば粗密波の正の同調でその分の音圧が増す。信念が強いほどに人が動くのはエントロピーの法則で平均化するからだろう。宗教でも同じ。上に諸刃と書いたけどおかしなところに行けばおかしくなる。とはいえ一人でも指向性が狭く、成長が遅いので縁は運になる。修驗は基本的に一匹狼だが、霊性は伸びなやむことも多いらしい。縁が見えていないというのもある。ある種の倫理とか才能についても、天賦のものであることに人は憧れ、誇るけれど、それが書物によるものでも先生に教え込まれたものでも内容の形態には差異はなく、経緯はどうであれ今現在自分に備わるそれを大切にするべき。霊性の高いものの力を受けるとひらめく。なんでもないようなことが、意外とシンクロしていたと思う。綺麗な雲水渓を歩くと神仏との縁が出てきたりする。綺麗な自然なという感じもまた重要で、縁自体が自然に透明化してゆく。暗在する因果応報の連鎖がある。人生の流れは縁に委ねられている。人は結構逆説的な思い込みに思い込まれているもの。統計は大切です。)
 人がその瞬間に引き出せる可能性のある単語(word)はせいぜい5000語~10000語程度。単語には音節(syllable)があり、音節には音素(phoneme)があるが、その音素すらスペクトル(spermata)に細分化すれば無限になる(coding)。しかし人は声帯(vocal cords)により空気を震わせ声門(glottis)から調音結合(coarticulation)され発せられた音素全体を、一つの単語として認識する。認識幅を超えて細分化された性質は、パロールにおいては価値のないことになる。個性や性質を明文化してもバランスのよい全体にはならない。エピステーメの對象には名詞がある。エクリチュールとして現れているものには名称がある。木花之佐久夜毘売命は木花之佐久夜毘売命なのである。祈りというのは霊的にせよ唯識的にせよそのままの性質で昇降する。祈るのならばそれへ向かう基盤が整理され、無意識にもどんどん工夫している。呪えば結局自分をも壞滅へと向かわせる基盤を造り上げることになる。建設より破壊のほうが簡単で、こちらは一瞬の出来亊である。神仏には心から祈ることで、心から祈ったぶんだけその意味不明なものの浸透により性質が近づく。特に審美眼でも容姿端麗でもない。全体が近づけるというものである。(あるいは元に戻る)


 言語學 …無伺定、無伺三昧、有伺定、有伺三昧について

 ・「オン」(仏教)
 ・「アーメン」(キリスト教、エジプト)
 ・「オーム」(ヒンドゥー教、ヨーガ)
 神道では阿吽の呼吸という。
 これほどは顕然としてないけど「無」も共通するところがある。


 否定詞[negative]の一覧:
 ラテン語で無はnihil。ニヒル。副詞で使えば「決して~~ない」の否定の意志も入る。中国語でも無は无で、韓国語でも同じくム。光が無いと説明するnight。ラテン語ではnox。ドイツ語ではアイネクライネマハトムジークのNacht。フィンランド語では夜はyo。夕方[iltaa]から月[kuu]が出て太陽[aurinko]は消えて夕闇[hamaran]の中に夜[yo]がくる。韓国語でもヨ。スワヒリ語では神がMungu, Mola, Mwenyezi Mungu、夜はusiku、夜警はmlinzi。月はmwezi。ウクライナ語で「ない」はНема。Нの名称はエヌで「ヌ」という發音。НЕやНiが頭に入り否定語になる。「無秩序」とか「不動の」ならわかるけど「日曜日」(неділя;ネジーリャ)もНEが頭になってるのがなんとなく面白い。ブルガリア語でも同じく、нeが接頭語で無の形式になる。夜はнощ。国際語であるエスペラント語のゼロは[nulo]。この名詞から品詞語尾[o]をとったnulが、数詞として用いられることもある。1はunu [ウーヌ]。ラテン語[neuter]はどちらも・・ないの意。ドイツ語のOhneは~を持っていない。血液型のO型のOと似ている。A抗原とB抗原を持っていないということで、元々は0型だったらしい。ヒンズー語でNoはナヒン。ナイチャイエ=いりません。必要ありません。インドに旅行すると一日2000回は使うらしいので覚えておいて損はない。
 どの言語を見ても「はい」「いいえ」のいいえは"No"的に共通していた。「はい」は共通してないのに。ゲルマン系の影響を受けてないのはチェコ語。ほかの言語にたいして保守的で、スラブ祖語の姿に近い原型をとどめている貴重な言語である。隣のドイツ語とも似ているのかと言うとまったく違うらしい。そのチェコ語でもまた、「いいえ」は"Ne"(ネ)である。「はい」は"Ano"(ノ)。Dobry den!(ドブリーデン;こんにちは)、D?kuju(ジェクイ;ありがとう)、Ahoj!(アホイ;やぁ! またね!)、Nashledanou.(ナスフレダノウ;さようなら)。チェコ語は音韻が幼児語のようで、「ぺピーチェック」と呼ばれるらしいが、そういうものこそ神の原型に近いと考えておきたい。神に守護されてきたのかもしれないし。
 エジプト語の死はab、mer。フランス語ではmort。ラテン語で黒いはniger。スペイン語の鼻はnariz、マヤ語はni'、ニ。夜はスペイン語はnoche, マヤ語ではa'kab, ak'abil. アクバルとは何の關係があるのか。マヤ語の否定はbaki, bal, chan, ma, matla, mu。ム。イヌイト語のNoはNah'ga;Nah'me、夜はOong'nah;Oong nah'puk、NightsはOo noo'nek、海はOo na'ne;Toy o'ne。太陽はシキンヤ(セントローレンス島、アラスカの北岸)とかメルスク(ダイオミードやカウェア)だけど月が不思議で、アベトクックとかアマリツク(セントローレンス・サウンド)、アマロック(ヌアトク族)、アマラ(マッケンジー川)とかいうらしい。お茶はChyというが、太陽も月も輸入される類のものではないので、日本のアマテラスとは彼らのシャーマニズムにおいて共時的な関係があったのかもしれない。天照大御神はイザナギとイザナミから産まれた神様で、とりわけ美しく光り輝くので太陽の象徴としてその御名を冠している。実は性別などあまりはっきりとはしていない。「元始、女は太陽であった」と中森明菜も歌っているように女性が母體として輝くことがひとつの健康な国家の理想だけど「伊勢神宮に行けば天照大神の肖像画があるけど、誰がどう見ても男としか思えない」とのことで男性神という説もあり(笑。女だと思ったら男だったとは気持ち悪いがフランス語とドイツ語 それぞれにおける太陽と月の違いと同じである。Le Soleilla Luneder Monddie Sonne. etc.. 男性名詞、女性名詞の冠詞はヒュレーから離れたエイドスの領域にある。物質で考えても仕方ない。(ただエイドスが物体に反映している現象も超自然を觀察していると多々あり。この前お神酒の筒の中から白い羽衣めいた物体が出てきた。愛により固成するものかはと思った。なんでこんな霊性のとおりの紋章や道具なの?と思うとやはりおのずから像に顯現している。神智学やチャクラの理論においてはロゴスの流出力とされる。[img]。なんでこんなに美しいの?神社でもすがすがしくなるが当たり前の感覚の中に神秘の問題が潜んでいる。中性的な人ほど悟りやすいとか、公平無私とか自己犠牲の愛を会得しやすいなどとはおおやけには言われないが密教的にはよく言われることで、これはプラトンのシュンポシオンにも通じる考え。ギリシア哲學の国家論では少年がその母體の理想像になっている。しかし少年が相手ではカロスが求められすぎるゆえ、頽廃を招きやすいという一面もあった。)
 マジャール語もラテン語起源で神はIsten、無はnincs(there is not)、nem(not)、ne!(めっ!)。無だけは変わらない傾向。音楽はzene-で北欧音楽の擬態語か、馬はlov, loでhorseではなくロバにされてる。idos(old;年とった)はギリシア語のエイドスと似ていてフランシス・ベーコンではイドラにもなる。ラップ語のゼロはnollla、否定形ではin…(私は…しない)、ne…(たいそう…)。njuovvat;njuolgaは殺す。太陽はbeaivi、月はmannu、鼻はnjunni、眠りはnagir。スオミ語で地球はmaa。ゼロはnolla。noinは大体。本來形もなく名付けようもない無の言語は共通しやすいけど、有の現象世界になるとそれの捉え方でころりと能記が変わる。
 ラテン語でnos、nosterは代名詞:私達。パリのノートルダムはNotre-Dame de Parisで私達のマリアという意。フランス語の[nous](私達)はギリシア哲學のヌース[nous](真実;Epistemeを直觀する知性)と綴りが同じで、ユングの集合無意識を連想する。ラテン語[noos]は心。エジプト語の一人称複数もNでヌというので、無象無私の中ではエッジトーンは相応しくないのかもしれない。またエジプト語の「良い」はNeferでinstrment like a luteと訳される。地中海を挟んだ隣国のAmati Homageはリュート設計なのであのような音が砂漠の国イシスでも[nefer]の象徴なのだろう。
 コプト語 aghapi(愛していること)の概念はユダヤ教が拡大するにつれ有名になってる。paidophiliaのピリアーがアガペーに淘汰された感があるので、ここで復権させてみるのも面白い…と思ったけど既にVIPには流行りまくりんぐか。ギリシア語ではAの接頭は尊敬。あーむ。仏 amore。エジプト語の一人称単数はA。死者の書は八百万の神々にいろいろ呼びかけていた。一神教でも形態に変わりはなく、万軍の主に呼びかける詩篇のようでした。教会のオルガン奏者のフーテンさんによると一神教の神とは本来アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神…俺の神、とのこと。バビロン捕囚時代に抑圧された民がイスラエル民族のアイデンティティを確かなものとするために、部族ごとにばらばらだった神を一つの神、ヨセフ族の戦爭神に統一したのが、今のユダヤ教の原典。だから、万軍の主と呼ばれるようになったらしい。出典:●宗教●(´・ω・`)ノ●無宗教●3●
 その他ラテン語で惡はmalusで「暗い」の意味もあり、フランス語ではmal。仏陀の母の名前はマーヤ、イエスの母の名前もマリヤ、マーヤは物質界や混沌を意味するらしい。マリヤも黒マリヤで象徴されれば同じ意味になる。Mは懐胎、混沌からの物質化。軍神マルスは、ギリシャ神話と関連づけられる前には農業の神だったらしい。海はmeri。善はhyvyys(←かっこいい)。邪惡なはpaha。澄んだはkirkas。宝石的。「否定する」のkieltaはkillと似ている。kiertaは「廻る, 循環する」で、「回転する」のkierrosはrevolutionの意味にもなる。夏のkesaはケサワンテンプルにも似てる。カサマンカリー。スミオ語とフィンランド語のpahaは東南アジアの神系の何かに似ている。仏教の魔はマーラ。ヒンズーのマハーカーラは大(マハー)黒(カーラ)。ラテン語では「聞く」という意味のaudioは見当たらず。「腐敗する」のautioはあった。「聞こえる」はkuulu-で「聞き手」はkuulija。韓国語にはムィショチョグロ(無意識に)という語があった。

 どれほど辺境の地でも土着語にはいろいろと混じってゆくもので、純粋に原始的な所記がどうなのかはいまいち不明。原始性にのみEpistemeが見られるもので、文化人類学の教科書にはジャングルに探索しているレヴィストロースの写真があった。今となってはそれがわかる。もう地球上くまなく探しても他文明に染められていない純粋な民族など存在してない。どこに行ってもテレビはある。もちろんミュトス的な観點では言語より文化、文化より自然そのものに真実(ありのまま)があって、子供の相手をしたり、旅で森林を歩けば原始性を呼び覚まされる心地はするけど。




AUBE

 自分の霊性がたとえば1000Hzで神が20000Hzだとしたら、神への祈りは倍音として届く。反對に700Hzの人には自分の発言は低い周波部しか届かない。700Hzの周辺で解釈される。藁人形に向かえば自分がミイラになる。ワラ..
 とはいえ自分の波形は本当に欠けているかもしれないので、耳を傾ける…。耳にもろもろの穢れを聞いて心にもろもろの穢れを聞かず… 応酬しないよう言い分を取り込む。そうすると、相手にとっては不都合かもしれない。Alpha Processing、レガートリンク、SWSTW ... 補完されてしまう。



○+●+●+お・つ・む+○+●+○

 天才と馬鹿を掛け持ちできるのは天才だけである。馬鹿は天才にはなれない。天才になったのなら、そいつはもとより天才だったということである。でもそんな分類は正直どうでもよい。女だと思ったら男だった、みたいなことはいくらでもあるので。
 天才はおおかた独特(queer)である。天才の異分子な気味の悪さは、屹度馬鹿としての気分の悪さとは異質なもの。共同幻想を高次に逸脱しておらねば天才とか君子たりえず、そうでない者が常識を低次元に逸脱すれば、¨パーソナリティうんたら¨と定義される。
 天才にはゆゆしい気品がある。評論家でもないのに鋭い眼光を光らせる目付きをしない。天才は、秀才ぶることを、馬鹿にしている。天才と馬鹿は紙一重だけど、常人には奇人の狙いは難解すぎる。秀才には理解できる。電波はそれをやる。
 或る日の事、東西両堂の雲水達が、一匹の猫をつかまえて、この猫にも仏性が有か否かについて論を戦わせておりました。騒々しいので、南泉老師が出てきました。そして爭う両者の中に入り、左の手で猫の首をつかみ、「道(い)い得れば助けよう、道い得ずば斬る」と、怒気を含んだ言葉を放ちました。見れば、右手に剣を持ち今や斬らんとしているではありませんか。「道い得ればよし」、何を答えればよいのか?雲水達は気をのまれ、水を打ったように静まりかえってしまったのです。南泉の剣は、無惨にも猫を斬り捨ててしまいました。
 夕方、高弟の趙州和尚が帰って来ました。南泉老師が、猫を斬った次第を話すと、趙州和尚は何とも言わずに、履いていた草履を脱いで、それを頭の上に載せて出て行きました。それを見た南泉老師は「趙州さえいれば、猫を斬らずに済んだのに、かわいそうな事をした」と合掌したのです。(『無門関』 南泉斬猫)
 この話がわかる人は秀才です。わからない人はそれ以外である可能性:76.6666%




○+●+○+霊性について+○+●+●

 霊性は厳然として存在しているが高い低いは判斷である。霊性に上下左右はなく、どのような音楽を宿した魂であるのかが霊の位になる。
 人格と霊格のあいだには通様相的な關係しかないけれど、傾向としては霊性の低いものの思想は機械的でやかましく、その中身は霊性の低い感情に満ちている。現象に素直でなく、流れの悪い感情を肯定したまま感情構築しているだけなので、論理性には乏しく他者批判的になりがちである。用語・人物・統計に、恣意的な感情が入ってるような定義をする・或いは信じてそれを須いる人は認識が浅薄、というか[學問以前]といえるでしょう。生きとし生けるもののメンタルはインコヒーレントなもので一概には言えないものだけど、霊性は高いものになると己とか作為心がなく真心と静けさが優位になり、論の普遍性には感情に流されずにジンテーゼされた苦心が伺える。論を求めずとも詩的感情は精妙で、俄にはわかりにくい様相を帶びている。気感としては、霊性の低いものの界面は粗いが、霊性の高いものはその正弦波に品格がある。場所的には自然に近いほどよく、木々せせらぐ1/fの抑揚でα波が保たれる。自己啓発のなんたらとかやってるところはたいてい2/f以上で、結果的にβ波の割合が増してくる。仏は気が長いという。仏閣では基本的に安らげます。だからこちらを一般的な健全さとして霊性が高いとしているのです。音響の理論においては、今の音の振動(粗密)に同相の振動を与えると、その音はそのエネルギー分だけ音量が増し、逆相の振動(密粗)を与えると、0になる(音が消える)。それはプッシュプル出力とかノイズキャンセリングとしてオーディオ製品にも活用されているけれど、その振動の原理になぞらえると、惡というものを憎めば惡は憎しみを増す。(それ)神を想えば(それ)真善美は増してゆく。ということになる。つぎに、その音圧というものにくわえ、振動には複合された波形がある。その竝があるからトーンという質が生まれる。周波数全體が数学的に調和したトーンは快い。電子音は人工的に作られた波形だけど、その振動は単純で一律的で、明瞭な音になる。電子音はプッシュプルでもキャンセリングでも崩れにくい特性があるので、オーディオ的にもユースフルな音である。反面、アコースティックの複雜な響きは出しにくい。未だにストラディバリウスの音のよさの原理は解明されていない。天才の創るものには科學が及ばない。それは音楽でも宗教でも同じで、次元の高いものほど独学では到達し難いところが見えてくる。それどころか、理解自体・理解以前で、何をどう鑑賞したらいいのかすらわからないことも往々にしてある。マデトヤの音楽とか紫式部のもののあはれになると、その感覚がナイーブで素朴すぎるゆえ、掴めない以前に、退屈だ。実際、「繊細」には周期の短い振動が多く複合されているだろうから、霊性の高いアウラほど相互作用も淡いこと思う。これはオーディオでは樂音はうまく出せてもホールトーンまではなかなか保てないのによく似ている。また、宗教は自分の性格に合えばキリスト教でも拝火教でも何でもよいという人もいるが、感情移入したさいに受ける霊性の影響に人は無自覺なもので、その縁の中にいる人を外から見ると、その性向は言葉(エクリチュール)や反応に明らかに現れているもの。宗教とは縁を共有するものだからです。理想的には『パイドン』に見られるソクラテスの態度のように、自然と同化して真理を知りたいと思えること。自然そのものになってしまえば想い出も五感の媒體も消えるけど、もう真理そのものになっています。その真理は何物にも依存することのなく、空気の中を泳いでいる。ピカイア、コジコジ、シャグジ様、コスモゾーン、暗黒物質йй