− 東セ葉刀@−


*毀るべき人々を誉め、また誉むべき人々を毀る者
――かれは口によって悪運をかさね、その悪運のゆえに幸せを受けることができない。

*悪口をいい、また悪意をいだいて聖者を毀る者は、
十万のニラルブダ地獄と三十六と五千のアルブダ地獄とにおもむく。

*愚かにも、悪しき見解にしたがって、真理に従って生きる真人・聖者たちの教を罵るならば、
その人には悪い報いが熟する。――棘のある芦はのびて節が熟すると自分自身が滅びてしまうようなものである。

*善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すな。
善いことばを口に出したほうが良い。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。

*他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。
かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。

*口をつつしみ、ゆっくりと語り、心が浮つかないで、事がらと真理とを説く修行僧
――かれの説くところはやさしく甘美である。

*自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。

*安らぎに達するために、苦しみを終滅させるために、
仏の説きたまうたおだやかなことばは、実に善く説かれたことばである。

*自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が智慧悪しき人を打ちくだく。
――金剛石が宝石を打ちくだくように。

*極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。
――蔓草が沙羅の木にまといつくように。

*みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いものも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

*もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、
その行為をしたことは善くない。

*もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、
その行為をしたことは善いのである。

*自分の幸せだけをもとめる人々は、笑いながら悪いことをする。
しかし、かれらはのちに苦しんで、泣きながらその報いを受ける。

*悪い事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、
すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟するのである。)
その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。

*信ずる心あり、恥を知り、戒めをたもち、また財をわかち与える
――これらの徳行は、尊い人々のほめたたえることがらである。
「この道は崇高なものである」とかれらは説く。これによって、この人は天の神々の世界におもむく。

*信は人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せを受ける。真実は、実に諸の飲料のうちでも最も甘美なものである。明らかな智慧によって生きる人は、生きている人々のうちで最もすぐれた人であると言われる。

*信仰と戒しめとをたもち、生きものを傷けず、つつしみあり、みずからととのえている人は、
汚れを去った賢者であり、「端正な人」と呼ばれる。

*信仰あり、徳行そなわり、ものを執着しないで与え、物惜しみしない人は、
どこへ行こうとも、そこで尊ばれる。

*生きとし生ける者どものあいだにあって、信仰と智慧を得た賢い人にとっては、
それが実に最上の宝である。そのほかの宝はつまらぬものである。

*下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮すな。
邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。

*物事が起こりまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が起こりまた消え失せることわりを見て一日生きるほうが優れている。

*汚れが尽きてなくなるのを見ないで百年生きるよりも、汚れが尽きてなくなるのを見て一日生きるほうが優れている。

*修行僧は、身も静か、語も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐き捨てたならば、<安らぎに帰した人>と呼ばれる・・・

   『ブッダの言葉』(中村元訳)


自分がその他大勢にならないためには自分自身にたいする執着を離れるということ。
健常者ほど大衆に馴染んでおり、悟りに近い人ほど大衆からはまた離れるが、より一層とそれに励む。それは楽しいことなのである。

驕り高ぶる者は 次の瞬間には脅えている
頭の良いものは因果に脅えていることを知っている
だから頭の良いものは驕り高ぶらないことにする

構えがあると「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直に出てこない。構えに雁字搦めになっている。

何かを誇ればまだそんなことを歯牙にかけているのか、と馬鹿にされる。それどころか賢い鷹には、背後の恐怖や自意識の仕組みまで裸になるまでに解体される。
人は自分が思っているほど馬鹿ではない。目は合わせないけど耳と空気でかなりのところまで見抜いている。