直線上に配置

うかがいとは神の意識を伺うこと。霊性が低くても、霊性の低い存在物のうかがいはできるが。



芸術の場合は脳から生まれる。生産機。
数学の場合は脳が処理する。計算機。
さらに、宗教的には脳は媒体にもなる。
うかがい(うけい)とは神意をうかがうこと。



 A格の神・仏になると、その内容が理解できないみたい。情報処理能力や研鑽が必要。審神できる先生も、それが簡単な類いの情報なら理解できるけど、入り組んだものになるとかなり難しいらしい。
 東大出ぐらいの人がうかがいできるようになれば鬼に金棒みたいだ。でもそういう人に限って、論理的・一見現実的に処理してしまってこの道に入らない。もったいないことだと言ってた。せっかくその神の言ってることが理解できるのに。その喜びとはたとえば・・・芸術作品にも難解なものがある。素質として音感や色彩感覚、そのうえに教鞭をうたれて、造詣を深めて、やっと理解できたときの感動、飛翔するエクスタシー・・・まぁ苦労しないと得られないんですけど。
(僕も早くうかがいをしてみたいけど、そんな動機では根本的に間違う。研鑽積んでない人にいきなり高エネルギーのかつ複雑怪奇な意識が流れてきたりしたらパニック起こすだろう。下痢とは違って、頭は記憶してしまうものだから、一旦エピステーメが崩壊したものなら回復するまでおねんね。果ては悪魔にやられたとすら叫びたくなるだろう。)(そもそも芸術とはインスピレーションから得たものでなければ芸術でない。たとえば現代のクラシックにもやたらと耽美的な音楽がある。絶対音楽としての内容が薄く、ほぼ映画音楽で、やたらと鼓舞してる。無宗教だと思う。それを老後クラシックにはまった親戚が『いい曲だよね〜』と言ってたから少し残念だった。僕の誰も世界はわかってくれないと思う。その人はラフマニノフが好きなのでまだ未聴のラフマニノフを聴けばいいと思った。)(人間的な意識によるものはほとんど美しくない。訴えがあればかき立てられるのに、無理に芸術性を求めても心惹かれない。芸術とは飛翔だから、足がかかってる状態でどれだけ飛び立とうとしても、飛んでいないことは自分が一番よくわかっている。サルバドールダリなんかは野性なので構造的によくわからんけど、音楽は音響ではないし。文学とはマジレスではないし。撮影監督の野々山さんと山田太一さんの講演は面白かった。ドラマ『ながらえば』を書いた山田太一は、監督の人に応えたい(怒られないようにしたい)一心でいたけど、どうしてもネタがないのに困ってた。でも困って遠くに出て行くと、下調べ中にふと思いついて「野々山さんもう大丈夫です」と言った。撮影監督の野々山さんはそのことを振り返り、「芸術家ってそんな風に出来てるんだなぁ」と言ったら、山田さんは「いや〜まったく覚えてない」と応じてた。『ぽっぽや』書いた浅田次郎も、講演会で言っていたけど、夜食にオムレツを作ろうとして卵を割り、フライパンでひょいっとひっくり返したときに「天使が降りてきた」らしい。天使ね。モーツアルトの音楽は悪魔ね。小林秀雄が勝手にそう言ってるだけだと思うが、悪魔も神に対比されるものだから、(格によるが)そうとうな存在物だと思う。親交のあったドフトエフスキー宅で、ピアノ協奏曲の何番かを聞かせると、ドフトエフスキーもプライドが高いのか、だまりこくってしまい、ぶつぶつと独り言を始めた。モーツアルトは「新しい曲だから聴いてよ」ってなもんだったろうけど、モーツアルトが帰るときにもテーブルから離れず独りでぶつぶつと続けていたらしい。そのことを振り返ると、モーツアルトには少しの悪意があったのかもしれない。往々にして、一緒になって感動できないうちはそうなんです。)
 A格より上のB格になるともう神格という次元ではなくなってしまうから人間には不可能だとして、ブッディクラスの神・仏なら努力次第でだれでもうかがいはできるようになる。師匠に力があり自分の素質に継続した努力が加われば2年ぐらいでものになるらしい。簡単にブッディといってもそうとうな霊格なわけだけど、人間の知能でも観照できるもよう。
 反対に、新興宗教は概してE格(地底に落ちるほどに低いランク)だけど、奴らの言ってることはマジレス以下で、詩才0の世界。一見難解でも紐を解けば理解できる以下、既に不要だとされて、ジャンクDNAに刻まれている内容。それを鼓舞させているから鬱陶しく食傷気味に思える事が多い。
 そういえば、ある有名な新興宗教に通っていたとき、徐々に思考力を奪われた。創造力が後退している感覚が、当時なかなか繊細な感覚を持ち合わせていたのであからさまにわかった。イジドールほどの血気はないし、モリエールのような風刺も効いてない、そんなたいした創造力でもなかったけど、そういうものが欲しかったのかな。それとも都合が悪かったのかな。あれは一体何に使われてるんでしょう。信者の精神解放に使われてるんでしょうか。手管に利用してるんでしょうか。鎌倉の建長寺なんかでは、逆にすごい強力な悟りが得られて、その後一カ月ぐらいは何事にも動じない境地に加速できたもんだけど。まったく。

 ※ 前後の創造力を対比すると、こんな感じ。
   2003年6月の作品[thanatos]
   2003年11月に、その宗教の勧誘に乗って
   2003年12月に作った作品[eros](あとで推敲してあるけど。)
   違いがわかるかな。本人にしかわからないかな。



  


直線上に配置