ロリータ・ショタ治療法
異常性愛 治療
性倒錯の治療法 アブノーマルからノーマルへ。






ポッチヤマは健全なペンギンである


 ポッチヤマは関係ないけど、研究によるとぺんぎんには同性愛のカップルが多いらしい。なんでペンギンなんだろう。神はなにをよしとするのだろうか。
 世の中には異常性欲が溢れている。覗き、ストーカー男娼女装スクール水着メイドネクロフィリア獣姦S性とM性「」少女監禁、などなど。なるべく普通のものが深いと思うのだけど。体操服とか、ケモショタとか、あの子の縦笛を吹くとか、おもらし趣味とか、財布の中身を見られたりリュックに手を入れられてなにか恥ずかしがっている学生の子の表情が見たい、などなど。それらの願望は一種の芸術性の高みに至っている。でも性欲はまだ煩悩である限りその性質は醜いものが多い。一体神はそのうちの誰を何をよしとするのか‥それは発せられる霊性の善し悪しに過ぎない。自然性愛から異常性愛への視点で辿ると、欲求不満や過剰な欲求によるものがほとんどになる。確固たる対象がなかったことが原因のひとつにもあるだろうが、必ずしも脳の差異ではない。世の中の上層部の人間に同性愛的嗜好を持つ人間が圧倒的に多いと云われる。高度な感受性創造力複雑で多次元な思考回路が、普遍性を得ぬままにあっちの世界に奔走してしまうのだろうか。そこにあるのはギリシア的な崇高な哲理かもしれない。抑圧された感情のゆがみから生じたものかもしれない。10代の人生経験に基づくところが大きい。

トリトン

 少年は美しい、世界でもっとも美しい心と動作をしている。が、それを美しがってみても倒錯だといわれる。仕方ないが納得はいかない。国立西洋美術館のロダンの彫刻にみた貝殻に耳をすます少年は美しかった。ギリシア的なエロスは、わからない人にはわからないから仕方ないんだと感じていた。神性を宿すと、今までの形では不十分でやや苦しさが生じることもある。それはキリスト教系の神性の中にそれを拒む要素があったからでもあったが、少年への愛はたゆまないも、脳みそと魂100%が受け入れている訳ではない部分もある(脳みその中でこの趣味が広がっているんだという解釈は阻まれる)プラトニック同性愛などの心理に傾くには状況のほかに、注意の不足・欠落もあるようだ。トランスジェンダーについては知らない)(精神の可能性は限りないが、ホルモンの注入で変わるものだろうか。Y染色体X染色体には影響は入らないのでホルモンでは変わらないか)(同性愛や性同一性障害があるのだから同性嫌悪症候群もあるだろうなぁ。同性が嫌いとか自分の性が嫌いだとか。)
 自己変成は可能である。無いものを求めるではなく眠っているものを呼び起こせばよい。人間は霊的には神から発生してきたものである。どこの神か佛かにもよるが。僕は我々にとってもっとも素粒子的(霊的)普遍性を得ているのは日本の神道だと思っている。 (キリスト教ではエデンの園でアダムとエバが堕落してしまったから神性を欠くことになったという形而上世界で解釈される。ローマ教では特に同性愛はタブー視される。しかしこれは文化的な問題とその文化を形成した神の問題。地域が変わればたとえば日本の薬師如来の十二の大願には第八願に「転女得仏の願」というのがあり、これは「女性が女性であることをやめたいと願っている場合、立派な男性になることができるようにさせる」というものである。物理学的にも心が世界を構造する、という側面があるようで、となると その地域に産まれたなら往年より構造してきた世界観・敷衍する伝統から逸脱することのないよう宗教も選択した方が、戦争にならずに済む‥その人生。同性愛に寛容な四季折々の地域に生まれたのなら、あえてガチガチの狩猟地域の科学的教義に合わせる必要もないだろう。また聖書を読んでも、まぁ僕の場合そうとは読めなかったが、同性愛はソドムとゴモラなので神から逸脱したものなので、無条件に殲滅する対象であるとも解釈できる部分があり、同性愛に嫌悪感情のある人が聖書を読み進めるとそのままの形で性質が進んでしまい同性愛者を殺したローマ法皇のようになるんだろう。折角神を知るまで精神が進化しても、普遍性への認識が及んでいなければそれは偏狭な神になってしまう。神に無限の愛があるのなら、すべてかわいそうなものは治そうとする。無理だと知ったらせめて神の力で満たそうとする。それが僕のところに来ている神のサガである。同性愛者などは徳性さえあれば通常よりも深く精霊に満たされるというプロビテンスがある。それは僕の師匠が中性的な人ほど悟りやすいというのに似ている。)
 性愛は信仰や修行によって自然に諧和してゆく側面がある。神からの作用は原始的な自然法則上に流れる。体感するにはその波動の高さになろうとしつつ委ねる姿勢でいるといい。寢るときとかに。運命も人間の深層心理も、神威によって長い年月をかけて慣性的に形成されてきたもの。神的な愛を知れば、自然に神から育まれた愛(チャリティー)を肉体的経路に任せて流すことができる。プラーナ、ロゴス、ヴァーユなどの波形が自然本来の形になる。(人間は本当に変わる。半年前まではあんなに殺気立って生きていても今は少しは安息の日々。神威によれば相互作用で心情や主観の様態までもメタモルフォーゼする。) しかし自己が少年少女や特定のフェティシズム以上に信仰の対象になりうるものが見出せない場合、結局神からの愛は少年少女を愛する方面に、エロスエロスチャリティーとなり、平行移動するのみだが、それでも継続すれば自分にも浸透はしている。次のことを信じる―「僕のイデアを体現された人は世界にただ一人(か、二人)(か、三人)である」。
 マルティン・ブーバーという人の言葉…「悪人はいない。発展途上の善人がいる。敗者はいない。成功に向け学んでいる者がいる。」 「荒々しい波に乗ったサーファーほど遠くまで進むように、荒々しい運命に乗った人ほど進歩していく。」 「すぐれた作品は、自分を生み出すのにもっともふさわしい人間を選んで地上に生まれてくる。」。仕方ないとりあえず出会えるまでは神社仏閣に通い続けようと思うまで。


男の子のしぐさのかわいらしさが心から離れない・・・この治し方が知りたい。。いや、治らなくてもいいか。芸術家だから。


後記:以上のことを書いたのは、初版が2003年なので、実に7年も前なのだけど、僕の好きなのは、少年から高校生に成長することができました。あの子に出会えてよかった、と思える人に出会えたんだ。